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根拠のない自信【2】持っていないとダメなのか

つらつらっと、当時の私がどんな状況にあり、どんな風に思っていたかを書くので、長いですが興味のある方はどうぞ。

『結論早くして!』の方は後半の
【根拠のない自信が無いとダメなのか】
で結論だけお読み下さいませ!

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【 根拠のない自信はいつ芽生えたか 】

多分、子供の頃からそれはあったと思う。

昭和生まれの下町育ちなので親も昭和の子育て。
「学校は起きたら行くところ」
「帰って来たら外で遊ぶこと」
「大人の話しに首を突っ込むな」
「長女なんだからしっかりして!」
何か聞けば「小生意気なことをいうな」、
黙っていれば「何を考えているのか分からない」
…どうなってんの大人って!と、謎は深まるばかり。

子供にとっての最高権力者は親なので、言うことはちゃんと聞いていたし、(はいはい…)と、心の中の二度返事で反発するという可愛い子供だった。

代わりに頭の中ではおしゃべりなまま。
いかにも愛情がありますよと言わんばかりの言葉や態度であっても、
それが透けて見えるほど薄っぺらいものであれば傷ついた。
嬉しそうに見せる自分にも。

無関心、無頓着、無邪気な子供らしいコドモであったはずが、些細な事ですごーく傷つく。

ちょっとした目配せ、態度、言い回しなどの匂わせでじゅうぶんにダメージを受ける。

割と親族にスピ系が多くいたので当たり前にその手の話しもあったのだが、なぜか母は全否定。

とはいえ、私は視えたり聴こえたりするし、妹はとても怖がりなのに視えてしまって嫌がるので2人でなんとか対処していた。

「お願いだから出て行って」とか、
「部屋に塩を置いたらいいのでは」とか
「寺までの道を教えたらどうか」とか。
なんと健気な小学生だったのか。

でも、この時期に『使い分け』の練習が出来ていたのかもしれない。
分からない人に話すと無駄に傷つけられるから言わない様にする。
分かる人は分かってくれるから、そこでのみ解放する…という風に。

なので怪談話しには事欠かなかったのでそこそこ面白かったし(友達にも必ず視える子はいて、『こんな変なモノを視たよ』と報告をし合って笑ったり…)、分からない人に話して否定されることも、怖がられることも無いので平和で快適。

カンが働くのでモノゴトの対処が早く、傷は浅く済むという感じ。

『分からない人には教えない〜』と、やさぐれてはいるのだけど、実際にはビビリであることに変わりはなく、
毎晩、手を合わせては、
「今日は、あんなことやこんなことをしてしまいました、すみません!」
と、ひとり反省会をし、神様だか何様にだか報告をする。

直接、反抗反発をせず、内心相手をディスっていることを、良くない事とは思っていて、懺悔してバランスを取っていたのかもしれない。
特に信仰があるわけでも無いのに、なんとなく大人になるまでずっと続いた。
ちなみに隣で寝ていた妹も同じことをしていたそうなので(妹は「マジで視えなくなります様に!」と必死で願っていたそう)、姉妹って面白いねと大人になってからウケた。

視えなくてもいいのに視えるとか、分かりたくもないのに分かるとか、抗えないものがあったおかげで諦めもよく、『ま、しょうがない』と受け入れることにも長けていたと思う。

周りはどう見ていたんだろうと思うと、反抗期もなく、物分かりのいい良い子だというのに、親からは、
「根気がない、やる気がない、興味がないと微動だにしない」
と言われており、いまだに、
『そんなの当たり前じゃないの?』
と思っている。
こっちはかなり歩み寄って生活しているんだから、やる気がある時だけ頑張りたいわ…と。

早々に黙らされたお陰で、頭の中で喋っている訳だけど、自分がもうひとり居る感覚もある。
対話しているのかいうとそうでもない。
俯瞰してる自分と、自分自身が、一緒にいて心強いという感じ。
『やさぐれ武装』については、私は本当にケンカが出来なかった。
「どこで怒っていいの?」と周りに聴きたいくらい、よく分からない。

周りを見ていると、よくもまーそんなことで怒れるものだと沸点低すぎて本当にビックリする。
『はいはい、おっしゃる通りでございます。こっちは感情をオフっとかないと』
…と、感情を切って真顔で受け止めている風に嵐が過ぎるのを待ち、事なきを得る。

思ってることが顔には出ないので表面上は、凪。
だがしかし、凪の様でザクザクと刺さって来ているのも実は分かってる。
分かっちゃいるけど、その場で争って更に傷を深めることは避けたいので、やはり黙ることを選び、内心相手をディスる。
(いつまでごちゃごちゃ言ってんだよ、一回で分かるわ…ったく!)と。

ごく稀に母に対する失望が表情に出てしまうと、なぜが母が大騒ぎして被害者側に立ち、父に必死の告げ口。
さっぱり意味が分からなかったが、今にして思えば、母は父が大好きだったのかと呆れる(←いや、呆れないであげて)。

母を見ていて承認欲求のなんたるやを知り、それが可愛くも美しくも見えなかった。
なんというか…承認欲求が醜いという話しではなく、『素直さ』から外れた承認欲求は歪んで伝わるという意味で。

なので大人になった今でも、
『見てみてー私すごいでしょー褒めてー』と心でシャウトしてるのに、
表面上はいい人キャラを作り、
でもチラチラとマウント発言が隠しきれていない、『プロモーション下手くそか!』という大人を見ると、
(おやまーお疲れ様…褒めなくもないけれど、ちょっとあっち行ってもらっていいですか…)くらいに思ってしまう。

なんで素直に『見て欲しい、頑張ってみた!』と言わずに隠すのか。
隠したつもりが丸見えのプライドやマウントが
どれだけみっともないのか気づかないアナタが謎すぎるー!
と、こっちがシャウトしたくなる。

その反面、黙して語らずのまま地味に頑張っている人を見ると、
「ここにすごい人いるーーー!」
と大声でみんなを呼びたくなる。

結局のところ、やさぐれたアマノジャクでもある。

『見てみて』と押しつけられると見る気は失せるし、
『大丈夫です、頑張ります』と言われると手を貸したくなる。
それが人情だよねとも思う。

ひとりで限界まで頑張ることが美しいと言っているのではなく、
ひとりでもやろうとしている姿に心打たれる感じ。

時折、なんで自分の気持ちは理解されないのかと悲しくもなるけれど、なんかこう…シンミリしてる時に確実に攻撃して来る人もいて、「うかうかしてると致命傷をくらうぞ!」と思い、とにかく無の境地を貫く。

そんなことをしていると、しっかり者キャラになったり、ご意見番、相談役とどんどん自分が作られて行き、いざ自分が相談しようと思うと誰もいない。
聴くのは得意だが、言うのは苦手になる。
泣けない子供になる。

親から泣くなとも言われてもいるので、泣いていい場面すら分からなかったりして、葬式で泣かないと今度は冷たい子だと言われ、マジ勘弁してくれと思ったり。

なので漫画や、映画をひとりで見ている時だけ、安心して号泣できたりする。
もー、不健全じゃないのか?
と思うものの、クセになってるからしょうがない。

で、こんな自分の幼少期を哀れむかというと、悲しみは持っているけれど、そこだけを見過ぎないようにしていたと思う。

親がダメなら他の人。
近所のおじさん、おばさん、友達、塾の先生など、声をかけて自分を気にしてくれる人がいると感動が大きい。
気にしてくれてありがとうと思い、ちょっと喜ぶ。

でもやっぱり親がもうちょいこっちを見てくれたら…と、思った時期もあったけれど、本気で仲良く明るく話せるか、嘘なく楽しく過ごせるか…の部分で、あまり望んでいない自分にも気づいていた。

つまりは親子であっても、なーんか合わないんだよなーっていう事実をうっすら分かっているから言うほど憧れていないんだなって。

大好き!と思える人が親だったら素敵かもしれないけれど、私はあまり近くに行く気はなくて、でもとにかく健康で楽しんでねと思っている。

沈んだらどん底まで行くだろうという自覚もあり、「私は孤独だ」と思ったらゾッとするくらい寂しい思いをしそうだと分かってるから、やさぐれて、どいつもこいつもと思ったり、反省したりしてバランスを取れていたと思うので、結構メリットはメリットとして使えたのではと思う。

悲しいだけじゃないこと、深く感じることの面白さ、豊かさ。

こうして書き出して思うのは、私は深く感じないようにと言いながら、かなり底まで行って確認して自分の答えを持ってきてるように思う。

【 根拠のない自信が無いとダメなのか 】

つらつら書いてみたけれど、
『根拠のない自信が無いとダメなのか』
といえば、ダメじゃない。

本当に必要なのは『理解者』。
性格、特性に肯定的で、安心できる存在。

私は味方を自分で作り出しただけだと思う。

絶対にダメ出ししないし、
絶対に間違ってない!と言い切ってくれる
絶対的な味方が自分だったというだけ。

カンが良くて、諸々が視えたのも救いで、
この世のものでないからこそ力になってくれるかもとか、
そこに希望があったのかもしれない。

でもさ、視える視える言わなかったのってすごくない?
たまにいたよね、いちいち言ってくるヤツ…。

多分、大切だったんだろうと思う。
人に自慢したり怖がらせるより、静かに信じる方が。

友達で、似た性質の子が亡くなった時、
『あーこの子は、絶対が欲しかったんだ…』
と思った。

お互いが理解者であると思ってたけど、
お互いにパートナーはいて、
いつでも呼び出せるわけでもなく、
いうほど弱みを見せ合った訳でもない。
絶対ではなかった。

そして、人を試したり、困らせたり出来なかったから
去る決断をしてしまったのではと。

…なんて書いていて気づいたけど、
そろそろ命日だったわ…なにごとー!

同じ早生まれ。
なのにその年から、私だけが歳を重ねた。

なのでね、みんなに言いたいのは、
我慢も大概にしないとねと思うし、
ひとりで抱えることが美徳でもない。

愚痴でも、号泣でも、アリだと思うんだよ。

それを出しにくい私たちだけれども、
ひと言、ふた言交わせば、通じる感覚は持ってると思う。

ただ、ひとりで頑張っちゃってるんだろうなぁって思いながらも、
でも、こっちから聴いちゃ悪いかなとか遠慮してしまうのが私たちの弱点でもある。

それは相手に通じない想いではあるけれど、
理解ではあると思うんだよね。

思ってくれている人がいるってことを疑わないでいてくれたら、
それは『ある』ってことだから。

根拠のない自信を身につけるより、
近くにいる同じ深さを知る理解者に
打ち明けるのもアリだと思う。

結局、
人は理解者がいるというだけで
安心したり、ちょっと自信が持てたりするのではと。

なんなら聴くけど?

きっとこちらがその気になれば、
理解者っているんだと思う。


では、
またね!

波にピントを合わせたら太陽の光が全部を照らすの図。
すんごいね!


*あちこちで書いてます!

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2022.03.05
18:18


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