ドラマ版【さまよう刃】を観て「しまった」
作品の内容が内容なので、この記事もセンシティブな内容です。
あと、これは「ドラマを観た感想」とは言えない……と思います。
「観たことで考えたこと」を文章にしたよ!みたいな感じです。
なので、ドラマ版『さまよう刃』のあらすじ……というか内容?とか、感想を読みたいと「あなた」が思っているなら、この記事はちょっと違うかも。
でも、「まぁ……開いちゃったし。一応読んでみよか」……って思ってもらえたら嬉しいので!
ザッと内容書いときます。
▼ちなみに、書いてる人はこういう人
(簡単な自己紹介)
では、目次から。
ドラマ版『さまよう刃』を観て「しまった」
観て「しまった」ということは、後悔してるのか?
――と、聞きたくなる人もいる……と思う。
正直に言う。
ものすごく後悔している。
ただでさえ混合状態から、なんか……「軽躁っぽいのでは?」ってなってた(る)。
その上、その日はもう忙しいってことが、あらかじめ分かってたから。
なのに、なんか、また、ノリで!
それこそ、太宰の『人間失格』に手を出した時みたいな。
▼『人間失格』に手を出してしまった時の話
なんかもう、その場の「うーん、これみとこか」みたいな!安易な気持ちで!再生ボタンを押してしまった。
だから、激しく後悔している。
そもそも、「私」は自分がどういう人間か、それなりに理解しているタイプだと思う。
(あくまでも「本人」が言う「それなり」です)
▲「私」による「私」の考察
まぁ、長所を聞かれると、答えるのに躊躇してしまうけども。でも、逆に短所はすんごいいっぱい言える。
そんで、多分「短所めっちゃ言えます!」も、ある意味では長所だろう、とも思っている。
……この流れだから「私」の長所を言う。
ズバリ「何事もきちんと考えるところ」だ。
で、短所も「何事もきちんと考えるところ」である。
物事は表裏一体。
良い面もあれば、悪い面もある。
なので、長所は短所にもなるし、短所も長所になりえるってことなんだけど……「私」の場合、この差が激しすぎるのだ。
まぁね、でもね。
何事もきちんと考えるから。
「私」は、後悔はしたことがない。
いわゆる「たられば」を考えてみたりはするけど、結局答えは同じだから。
これだ。
「その時」の「私」も、たくさん悩んで考えて、考えまくって答えを出しているはずなのだ。
だから、もしも今、過去に戻って同じ選択を迫られても。出す答えは、結局変わらないだろうと思う。
――ので、後悔はしたことがない。
「もしあの時、違う選択をしてたらどうなってたかな?」と、想像はしてみても。
マジのリアルに考えたら、「そもそも違う選択をしてないな?」になる……ってなことである。
――で、良くも悪くも、「私」はなんでも考えてしまう人間なので。
「考えてください」と、己の在り方を問われそうな作品は観てはいけないんです。
理由?
考えてしまうから!
じゃあさ、『さまよう刃』を観たらさ、胃が痛くなるの分かってんじゃん。
あらすじからして、もう絶対怒りやら情けなさやら、とにかくあらゆる負の感情で、吐き気したり涙止まらなくなったりするって、分かってんじゃん。
しかも、今日(10/1のこと)は忙しい日なんだよ。
これ、もう分かってんじゃん?
でも、ちゃんと「観た」。
……でも、その前に「とりあえず流しとこか」で流してたドラマの終わりが、「私」にはあまりにも納得いかなかったから。
▼ほんとはこういうのがみたかった。
ちなみに、この記事で紹介している『架空OL日記』は本当におもしろい。
……そういうわけで、「ちゃんと考えられる題材のもの観たいな」とか思っちゃって。
そんで、「じゃあこれみてみよか。ぽち」みたいな。
これはね、もう完全なるバカ。
もうね、言い訳のしようがない。
マジ「ごもっとも〜〜!」って感じである。
でもまぁ、観ちゃった。
観ちゃったら、もうそれこそ「考える」しかなくなってしまった。
ちなみに、具合は悪くなった。
ちゃんとしっかり、具合悪くなった。
吐き気でえずきが止まらないし、涙もボロボロ落ちてくるし。ありとあらゆる感情が、荒波のように押し寄せて。
そんで、最後には消えてった。
「私」が一番「許せん」と思ったのは
――改めて。
「私」が一番怒りを感じたのは、快児でも敦也でも小田切(女性記者)でもない。
分かりやすく怒りを感じさせる登場人物というと、この3人は外せないだろうと思う。「私」も、当然のように怒りを感じた。
でも、一番に怒りを感じさせたのは、誠だ。
少年グループの中の、いじめられっ子というか、使いっ走りというか、金ヅルというか。
どれも間違ってはいないと思うけど、確実に「トモダチ」ではないと言っていいはず。
――で、誠の何が許せないのか?
……めっちゃシンプルすぎて。
なんか、もはや「すみません……」とすら思うけど。
快児も敦也も、とんでもない極悪人だ。
当然のように「コイツらは許せねえ」と思った。
小田切に関しても、「お前に人の心はないんか?」と思った。あまりにも残酷だ。
この人にとっては、それが飯の種で、突き詰めたら「生きるため」にしたことだとしても。
でも、それより悪いと思わせたのが、誠だ。
誠自身、良くないことをしてる自覚は、当然あったはずだ。……というか、これは悪いことだと分かっていたし、それに加担してるってことは「自分もコイツらと同じ」って、どこかで分かってたはずだ。
本当に「友達」と言える関係でないことも、「バレたら大変なことになる」とも。
そう。
「バレたら」大変なことになる、と思ってたんだろうなと。
――で、バレるかどうかも分からない未来より、目の前にいる快児や敦也の方が、怖かったんだろうと思う。
衣食住に困ることもなく、なんなら「持ってこい」と言われたら10万持ってこれちゃうような、恵まれた環境にいながら。
だから、言葉が悪いとは思うけど、「親の使い方」なんて他にあったはずだ。
母親を突き飛ばして暴言吐いたり、父親に殺してやる!と向かっていけるなら、もっとできることあったんじゃないのか?
そう思わずにはいられない。
作中、「ああいう流されるタイプが、一番危ない。流された結果、とんでもないことをしでかす」みたいなことを、ある刑事が言うシーンがあった。
どんなストーリーでも、主役が正しく進んでいく姿は、見ていて安心すると思う。苦難を乗り越える姿も、人に勇気や希望を与えるから。
でも、時に悪役が「主役を超えてしまう」ことがある。
主役を超えてしまうからには、そういう理由があるじゃん?
大体、悲しい過去とか、なんかそういう「こうなってしまった経緯」みたいなのがある……と、思うんだけどさ。
(ちなみに、「私」の推したちは大体そう)
とにかく、悪役には悪役なりの「美学」とか「ポリシー」とか、「こいつの本質はここにある!」って人に思わせる。
そういう「何か」がある。
その「何か」に共感を覚えたり、「なるほど……」と思わせるキャラクターには、なぜか「悪役」であっても惹かれてしまったりする。
(「私」の場合、って話なんだけどね)
善悪で考えたり、世界観で考えたら。
主人公が善で、正しい。
悪役はやっぱり「悪」で、間違ってる。
なのに、なんで「悪役だけどこのキャラは推せる」って現象が起きるのか?
「やってること」は、完全なる「悪」だったとしても。そこに至った理由や、「悪」を選ぶことになった考え方に対しては、共感を抱けるから。
――じゃない?って思って。(感想)
だから、「私」は快児より敦也より小田切より、誠に対して怒りを感じたんだろうな、と。
快児も敦也も、問答無用に悪いよ。
快児は幼少期から問題を抱えていたんだろうな、と思わせる描写があった。
ほんで、敦也についても、親が「快児のせいで、あの子は悪くなってしまった!」というようなことを言ってた。
――が。
まぁ、敦也の長峰への言葉からして、「そんなタマじゃないだろアレは!」という感じだったので……親も手を焼いていたんだろう。
だから、これ幸いと言わんばかりに、「こっちが!被害者!」と言い立てたんだろうと思った。
そんで、小田切。
それが彼女の仕事だとして。
それで食ってるんだと――生きる方法なんだとして。でも、やっぱり悪いよ。
だけど全員、それを「自分で」選んだんだな、と思った。
ちゃんと考えたかどうかとか、そういう思考の「深さ」とかは、また別として。
でも、敦也にしても快児にしても、「こうしたいと思ったからこうしたまで」という、自分で選んで決めたんだろうな感があった。
(と、「私」は感じた)
悪人になろうとか、自分は悪いヤツなんてことすら、考えてなかったかもしれない。ほんと、「こうしたいと思ったからこうしたまで」くらいのことかもしれない。
だから、表現に違和感があるかもしれないけど、「ちゃんと」悪いのだ。
犯した罪に対して償うべきだし、罰を負うべき。「これだけは絶対譲らんぞ!」と観る人みんなが思うような、「絶対悪」って感じなのよ。
小田切についても、「そこまでする必要はなかったはず」と感じる人の方が多そう――と思うし、「私」は「大人がこれだからいけない」とも思った。
でも、許せないと一番思ったのは、誠なのだ。
自分で考えて、自分で選んだ。
そう思わせるものが、なかったから。
いやもうどっちかにしろ。
頼むからどっちかにしてくれ。
その場の空気とか、トモダチだからとか。
そういうものに流された結果としては、あまりにも悲惨だし、救いがない。
でも、多分なんだけど。
この「誠タイプ」の人間が、一番多いんだと思う。
「私」も、今や娘をもつ「親」だから。
どうしても、長峰の立場で観てしまったけど。
でも、「私」はパパにとっては「娘」でもあるので……過去を振り返れば、パパは心配だったこと、きっとたくさんあったろうなと思った。
そして、「私」が今こうして生きていられるのは、単純に「運が良かった」だけかもしれない、とも。
もしも、自分の身に起きてしまったら
誰しも、作中の誰の立場にもならない――とは、言いきれない。
むしろ、今この瞬間に、どこかで起きてることだと思った方が、よっぽど現実的な気すらする。
だから、思わず夫に言ってしまった。
すべて観終わった後、やっぱり色々考えて。
ほんで、これはハッキリさせておこうと思って、言った。
夫・のりんこくんは、私の話は根気強く聞いてくれる。
なので、神妙な顔をしていた。
作中、「実行するかどうかは別として、長峰と同じ気持ちを持つ人間はいる」というようなセリフがあった。
のりんこくんは、やっぱり何も言わなかった。
でも、神妙な顔も変わらなかった。
その答えは、やっぱり「復讐しないでほしい」
……というか、「同じとこへ、おちてくれるな」だった。
もちろん、うちのお嬢さんも、「被害者の娘」から「加害者の娘(孫)」になってしまう。
あくまでも「私」の場合だから、誰にでも当てはまるわけじゃない。
ドラマ版『さまよう刃』においても、絵摩がどう思うか(思ったか)は分からない。
死んでしまった人間は、どうあってもかえってこないから。死んでしまった人間の気持ちも、聞くことはできない。
でも、父子家庭の「娘」で、娘の母「親」として思ったのは、やっぱり「同じとこへ、おちてくれるな」だった。
原作小説はもちろん、映画版を観ることで、また違う思いや考えが出てくるかもしれない。
でも、読まないし、観ない。
感想文を書くには、必要なことだと思う。
ただ、「私」はこれについては、別に感想文が書きたいわけじゃないから。
でも、考えることはする。
作品を通して、問われていると思ったから。
「お前の在り方は、どこにある?」って。
「私」は、人間に生まれついてしまった以上、考えることから逃げてはいけないな、と思っている。
▼参考
ほんで、「人間は考える葦である」という言葉が、すごくしっくりくるニンゲンだ。
だから「考えること」は、しなくちゃならない。
でも、どうすれば、「自分」が「こうありたい」と思える「自分」になれるのか。
その答えは、探している最中だ。
▲自分探し(?)マガジンやってます
でも、「目的地」が分からないままに彷徨い歩くのは、すごく危険だ。
……これだと、現代社会は便利すぎて、あんまり実感湧かないかもしれない。
だって、地図が読めない「私」でも、Google Mapsのライブビュー機能を使えば、はじめての場所へも迷わず行けるくらいだし。(これほんとにありがたい。本当に)
それに、「なんとなく」歩いてても、休める場所はいくらでもある。そもそも「なんとなく」で歩けてしまうくらい、基本的にはどこも整備されているから。
でもさ。
こう……「目的」が曖昧だと、結局「時間だけはすごい使ったはずなのに、なんだかな……」みたいなことは、経験あると思うの。誰しも。(え、ない?)
欲しいものが具体的にあるわけじゃないのに、「セールやってるんだ!」ってとこから、なんとなくAmazonとかZOZOとか楽天とか眺めててさ。
そんで、気づいたら時間経っちゃってたり、いざ物が届いても「……思ってたんと違うな……」とか、「いや別に、今買わなくてもよかったんじゃ……?」とか思ったりさ。
……なかったらごめんね。
…………た、例え話ってむずかしいよね!
――とにかく。
考えられる機会を得たら、考えよう
そもそも、「お前の在り方は、どこにある?」って聞かれてる(気がする)作品は、「私」にはあまり向いてないんだけどさ。
心身ともに不調をきたすので。
(でも「私」は「おろかタイプ」のニンゲンなので、多分またいつか繰り返すと思う……)
でも、だからこそ。
「あーあ、みちゃったよー!」で終わらせず。「感想文を書く」ことを「目的」にしないようにしたい。
こういうことを、きちんと考えたいと思う。
多分、いわゆる「自分探し」――をする前に、「自分」を知る努力をしなくちゃいけないのだ。
じゃないと、「なりたい自分」は見つけられないんじゃないか?と思う。
ほんで、見つけたところで「じゃあ、どうすればなれる?」って方法に辿り着くまでに、おそろしく時間を使ってしまう、とも。
だって、まず「自分」を知らなきゃ、方法も定まらなくないか?って。それに、正解を導くまでの過程は、何も「1つだけ」ではなかったりするじゃん?
……ていうか。
あくまでも「自分の人生における」正解でいい。
でも、それすら(多分だけど)生きてる間には、見つからない。
それこそ、死が近づいてきた時にこそ、やっと近づけるんじゃないだろうか?
おじいちゃん(享年100歳)との会話を振り返る機会があったんだけど、それで思った。
▲これは以前書いたもので、「振り返る機会」の話はまた今度
だって100年て、1「世紀」だよ?
1「世紀」って感覚そのものが、基本的に(身近で感じること)なくない?
関東大震災を経験して、戦争も経験して。
ほんで、豊かになった現代も知ってて。
それでも「あの時、こうしておけばなぁ」って悔やんでたり、「これでよかったんだ。今になってみたら、そう思う」って涙ぐんだりしてたんだよ。
そしたら、たかだか30年くらいしか生きてないんじゃ、なーんも分かんないの当たり前じゃない!?
でも、「あー、面白かった!」って死にたいんだよ、「私」。
「色々あったな〜、あれとかあれとか」
「……でもな、面白かったよな〜!」って。
だから、その瞬間のために。
「お前の在り方は、どこにある?」
これを、ありがたくも「現実」ではなく「作品」として。
ちゃんと考える機会を与えられた時は、ちゃんと考えたいと思う。
多分、その積み重ねが「生きること」そのものだし、それが最終的に「自分」の「人間」としての生き方=人生になる……んだろう、と思う。
3歳(自称)だから、まだ全然分からんけど。
ま、伸びしろがあって大変よろしい!
――と、思いたい。
なんか、「ワッハッハ!」てなれるドラマ、ご存知の方いらしたら……絶対に教えてください。
絶対に。
「クスッ」と系でも絶対です。
ちなみに、ネトフリの『極悪女王』、すごくおもしろかったです。(感想文)
私という「個」を応援してくださると嬉しいです。このnoteで行っていきたいあなたの「進化」のお手伝いにて、恩返しできればと思います。