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北村透谷「他界に対する観念」現代語訳

北村透谷の代表的な詩論の一つである「他界に対する観念」の現代語訳である。この評論は、明治25年10月に徳富蘇峰の『国民之友』の169、170号に掲載された。劇作は、透谷が最も力を入れていたジャンルで、明治24年に、劇詩『蓬莱曲ほうらいきょく』を刊行しており、この詩論はその経験を踏まえて書かれたものである。

この詩論を読む上で、劇の位置づけが今日とは大きく異なることに注意する必要がある。当時はまだ劇は詩の一分野と見なされていた、換言すると劇詩として詩の言葉で台詞が書かれるのが普通であった。今日のような口語による劇が一般化したのは、イプセン・ハウプトマン・チェーホフらの近代劇が紹介された明治後期以降のことである。

この現代語訳の底本としては、『北村透谷集』(日本現代文学全集 9)、講談社、増補改訂版、1970年5月刊行に所収のものを用いました。また、本文中には、『ハムレット』および『ファウスト』の英語による引用があるが、この部分についても、シェイクスピアに関しては、福田恆存訳(新潮文庫)、河合祥一郎訳(角川文庫)などを、『ファウスト』については、池内紀訳(集英社文庫)、柴田翔訳(講談社文芸文庫)などを参照して訳しました。ここに記して感謝を表わします。

 

他界に対する観念

北村透谷 著、上河内岳夫現代語訳

  悲劇は必ずしも悲しみを旨とせず、厭世は必ずしもきを趣としない。別に一種の不抜の他界に対する自然な観念が存在して、この観念は悲劇を人心の情世界に訴えさせ、厭世を高遠な思想家に迎えさせる。人間があってからはこの観念のないことはなく、あるいは遠くあるいは近く、大きなものがあり小さなものがある。宗教はこの観念の上に立ち、詩想はこの観念を糧にして生きる。

 この観念は、世界の普通の性質である。そうしてこの観念があることともに、離れることができないものは、この観念に二元性(dualism)があることである。あるいは善悪と言い、あるいは陰陽と言い、あるいは光暗と言うように。ペルシアの昔に、アフラ・マズダーの神とアマリンの神があったように、イスラエルの昔にエホバの神と悪魔とを対比させたように。顕著なものと顕著ではないものとの、一神と多神との区別の有無にかかわらず、彼の元を二つにするという性質は、この観念から離れないのである。およそ詩歌がある国において、「鬼」[demon]という言葉のないことがないように、「神」[god]という言葉がないことはないであろう。喜劇(コメディー)はあるいは鬼神がない国にも発達することができるが、悲劇(トラジェディー)になると必ず鬼神がない国には興ることはない。シュレーゲルも論じて、「古神学はギリシア悲劇の要素である」と言っている。実にソフォクレス以下の名詩篇も、彼の国に鬼神がなかったならば恐らくは伝わるほどのものではなかったであろう。

 フェアリー[妖精]があり、エンジェル[天使]があり、セイレーンがあり、スフィンクスがある。あるいは空中に住むものとし、あるいは地上のある奥遠な所に住んでいるとする、ともに他界に対する観念である。遠近は世界の広狭による差があるだけである。あるいは聖美なもの、あるいは毒悪なもの、あるいは慈仁なもの、あるいは獰猛なもの。宗教の変遷や思想の進展に従って、その形を異にするようであるとは言え、要するに二つに分岐した同根の観念である。

 ゲーテがメフィストフェレスを捕捉して、その戯曲の中に入らせたのは、必ずしもこのような他界の霊物が実存すると信じたわけではないだろう。私が他界に対する観念を論じて、詩歌の世界に鬼神を用いることを言うのも、強いて他界の鬼神を惑信するのではない。詩歌の世界は、想像の世界であって、霊がないものに霊があるとし、人間ではないものを人間であるかのようにさせ、現実ではないものを現実であるようにし、見ることのできないものを見ることのできるものとするのは、この世界の常である。汎神教が存在する前にこの世界には既に汎神的な趣味があり、形而上哲学が存在する前にもこの世界には既に形而上的な観念があった。想像は必ずしもダニエルが夢を解き明かした[旧約聖書「ダニエル書」]ように、未来を悟らせるものではないが、朝に暮に眼前のことにあくせくする実世界の動物が冷笑するように、無用のものではないのである。茫々漠々とした天地が、イギリスの大詩人[シェイクスピア]をして、

この天と地のあいだには、ホレイシオよ、
哲学などの思いもよらぬことがあるのだ。
[『ハムレット』Ⅰ-5]

おそれさせたのも、どうして偶然であろうか。

 『ハムレット』に出てくる幽霊は、実にこの観念、この畏怖より、シェイクスピアの心の内に生まれた。それが来るのは、極めて厳粛であり極めて悽惋せいわん[悲しい]であって、あたかも来なくてはならない時に来るがようで、その去るのは、極めて静寂であり極めて端正であって、あたかも去らなくてはならない時に去るがようである。来るには他界から歩んできた跡を隠さず、去るには他界に去るという意を隠さない。極めて真剣(アーネスト)な悲劇の真中に、極めて幽玄な光景を描き出す。ここにおいて平生は幽霊を笑う者でも、慄然として人間界以外に恐るべきものがあることを知り、悪が隠し遂げることができないことを悟る。彼の一篇から幽霊の趣向を除き去るとどうであろうか、恐らくはシェイクスピアは遂に今日のシェイクスピアではありえなかったであろう。

 「長足の進歩をする近世の自然科学は、詩歌の想像を殺した」という者があるが、バイロンの『マンフレッド』、ゲーテの『ファウスト』などは、実に自然科学の外に超絶したものではないのか。毒鬼を借りてきて、自由自在にネゲイシヨンの毒薬[不詳]を働かせ、風雷のような自然力をほしいままにする鬼神を使役して、アルプス山に玄妙な想像を構えたものは、何が自然科学が盛んではなかった時代の詩人と異なるだろうか。その異なる所を尋ねると、古代の鬼神と近世の鬼神との別があるだけである。詩の世界は人間界の実象のみが占領すべきものではなく、昼を前にし夜を後にし、天を上にし地を下にする、無辺・無量・無方の娑婆が、すなわち詩の世界であり、その中に遍満するものが日月星辰の見るべきものだけではないとするのは、自然な臆測である。「生死」は人の疑う所、「霊魂」は人の惑う所、この疑惑をもって三千世界に対する憶測に加えれば、おのずから他界を観念せずにはおれない。地獄を説いて天国を談じるのは、小乗的な宗教家の愚かな夢とのみ思ってはいけない。詩想の上において地獄と天国に対する観念ほど緊要なものはないのである。

 新教が勃興した後のキリスト教国は、一般に新たな活気を文学に加えたのである。そのそうである訳のものは、キリストだけがしたのではなくて、悪魔もあずかって力があったのである。換言すると、聖善な天力(ヘブンリー・パワー)に対する観念も、邪悪な魔力(サタニツク・パワー)もともに、人間の観念の区域を開き広げたものであって、一方があるならば他方がないはずはない。キリストの神性は、東洋の唯心的思想が達し得なかった所まで観念を及ぼさせるとともに、サタンの魔性は東洋の悪鬼思想が至らなかった所まで観念を到達させたのである。一神教の裏面は、一魔教であり、多神教の裏面は、すなわち多鬼教である。一神教には中心の権力があるがゆえに中心の善美があり、これと同時に一魔教にも中心の統御があるがゆえに中心の毒悪がある。一つの正に対して一つの負があり、多くの正に対して多くの負があるのは当然の道理である。このようであるがゆえにヨーロッパ諸国に行われる詩想は、日本に求めることはできず、善美なものに対する観念も醜悪なものに対する観念も、中心をもたず焦点をもたないがゆえに、遠大で高深な鬼神を詩想中に産み出すことができないのである。

 漫然と語る者がいる。その言うことは、「我が国にも幽玄高妙な詩想を作りあげるのに十分な古神学があるのではないか」と。私がこれを見れば、我が国の古神学は、あるいは俗を喜ばすような奇異譚を編むには好材料であろうが、とうていいわゆる幽玄(ミステリー)に基づく詩想を作りあげるのに適したものにはならない。その第一の理由は、とうてい今日に往古の古神学を用いることができないことである。すなわち古神が詩歌に入るのは、少なくとも古神に対する信仰が存在する時代でなければ不可能である。『ファウスト』を作りあげたゲーテは、近世の鬼神を中古の物語に応用したのである。古代の鬼神を近代の物語にはめ込んで玄妙な識想を訴えようとすることは、とうていできることではない。再言すれば、我が国の古神は、既に文学上では死神であり、いかなる天才の力をもってしても復活させることができないからである。その第二の理由は、我が国の古神は霊体ではなく人間であることである。出没自在の神通力があるわけではなく、宇宙万有を統治する者ではなく、報酬と罰の全権を掌握する者ではなく、その天界に領有する所は多くはない。天才の力があってもこれを借用する道はないだろう。第三の理由は、その複数であることである。前に言ったことがあるので重ねて説明しない。このように我が国の文学は、古神学に恵まれる所が極めて少ない。

 仏教の侵来以後の日本は、他界に対する観念に大きな著しい発達を示した。されども想像的な鬼神の輸入があるとともに、一方においては万葉時代に行われた単純な「自然力」に対する恐怖を、その心外の無法の斧をもって破砕したのである。精霊の思想は、それによって幽霊の新しい題目を文学に加える所があったと言っても、一方においては輪廻があり、無常があり、寂滅があって、それによって人間の思慕を切断して、幽奥な観念をさえぎるのに十分であった。仏教文学の精粋と呼ばれた謡曲の中に極めて普通な幽霊の思想は、人間の喜怒哀楽などの情意に動かされて浮き出るものであって、人間そのままである。彼の「おお、天の神々よ!」[『ハムレット』、第1幕第5場]と冒頭に書き出して、幽霊と他界の悪霊とが和合したもののように表現するものに、とても比べることができるものではない。まして狂気の王子のみに見えて、その母には見えないといった妙味になると、とうてい我が東洋思想が匹敵する所ではないのである。母にのみ見えて公子に見えないという一事は、我が戯曲の中にもその例を得ることは難しくない。されども怨恨する目的物に見えないで狂気の公子にのみ見えるのは、その同類を我が文学に求めることができない。天界と地界と所を異にするがゆえに、容易にその姿を現わすことができないのが、シェイクスピアの幽霊である。それが出現するのは主観的願望(デザイア)によって出現するのではなく、客観的抑圧(プレッシャー)によって出現するのである。自由な意志で出現するのではなく、自然な傾きとして出現したのである。『ハムレット』の幽霊は天才の力のみでそうであるのではない。その東洋の幽霊と相異なる所は、おのずからその他界に対する観念が遙かに我々と違う所があるからである。

 我が国文学の他界に対する美妙な観念を代表するもので、物語時代の『竹取物語』と謡曲時代の『羽衣物語』の二篇に優るものはない。そうして二篇の結構を調べて、その仙女の性質を推察すると、両者ともに月宮に対する人間の思慕を体化したものに過ぎる所はない。『竹取物語』の仙女は人間界に生れて人間界を離れ、『羽衣物語』の仙女はしばらく人間界に止まって人間界を去った。ともに帰る所は月宮である。おそらく人間界の汚濁を嫌がる念は、いかなる時代にも、いかなる人種にも抜くことができないものであるがゆえに、他界を冥想し、美妙を希望する結果として、心を月宮に寄せるのは自然のことわりであるが、この冥想、この観念を月宮にのみ集中させたのは、我が文学の不幸である。月宮は有形の物であり、月宮は宇宙の一小部分であって、人間界に近い一塊物である。その中には自在な力はなく、その中には大魔力はなく、無辺無涯の美妙を支給することはできないのである。ゆえに月宮を美妙の観念の中心とした我が文学は(前述の二篇について言う)、一神教国における宇宙万有の上に臨む聖善なものを中心として、万有趣味の観念を加えたものに、及ぶことはできない。『竹取物語』と『羽衣物語』の二篇は実に固有の古神思想と仏教思想とを合せ備えたものであり、その結果このようになったとすると、我が国の理想詩人の前途は、どうして不機嫌なものにならないだろうか。(嵯峨の屋おむろ『夢現境』をも参考にされることをお願いする。)

 我が国の詩歌を作る風流人を迷わせたものは、雪月花の外にはない。この一事もまた我が文学の他界に対する美妙な観念が乏しいことを証明するのに十分である。我が文学を繊細巧妙にさせ、崇高壮偉にさせることができなかったものは、結局の所は他界の観念がなくて、接近する物にのみ思いを寄せたからである。

 我が文学における恋愛というものが、甚だ野卑であって熱いものではなかったことも、また他界に対する観念が欠乏することに起因する所が多い。「もろもろの星屑を君の姿にして」などというような詞は、とうてい我が詩界に求めることができない。実界だけを追い求める思想は高遠な思慕を生まず、我が恋愛道が肉情を先にして真正の愛情を後にする理由は、ここに起因する所が少なくはない。

 少年の時に、劇に誘われて『大江山の鬼[酒呑童子]』を見たことがあった。三尺[約1m]の子供であった時にすら、畏怖の念よりもむしろ嘲笑の念を抱いたことを記憶している。そうして大江山の鬼は土蜘蛛などとともに中古の鬼物である。これを彼のバグベア、ウィッチ(魔女)などに比較すると、その妖魅力の差異がどれほど遠いかは一見して知ることができる。妖魅力を鬼物自らに属するものとするのが、我が鬼神の思想である。妖魅力をサタンから授けられたものとするのは、(仮にこの語を作って)「一魔教」の思想である。一魔教の魔業が天地を包むことは、前言した。我が国の妖魅力は一勇者である渡辺綱[中世の武士、源頼光の臣。大江山の酒呑童子を退治したという伝説がある]にも、源頼光にも征服される程の微力である。九尾狐の妖力をもっても那須与一の一本の矢に倒れてしまった。要するに我が国の文学上の妖魅力は人間の威力に勝つことができないものである。これもまた我が国に他界に対する観念の乏しいことを証明するのに十分である。

 「死という眠りの中でどんな夢を見るのか」と歌った詩人[シェイクスピア]が西洋にあるが、「死んで仕舞えば真っ暗闇」と説いた小説家が日本にはある。「死は眠りである」と言うのと、「死は終わりである」と言うのと、思想の上に莫大な差異がある。一つはエタニティー[永遠]のキリスト教的思想より来て、一つは無常迅速の仏教思想より来たものである。

死後の世界への恐怖
行けば帰らぬ人となる未知の世界に
心が鈍る
[『ハムレット』Ⅲー1]

のようになると、彼の国の観念に見ることはできるが、とうてい我が想界には求めることができない。これもまた我が文学に他界に対する観念が欠乏していることを告げるものである。

 石橋忍月氏は、かつて外来物を論じて、「詩人が外来物の補助を借りて方便にすべきこと」[『詩人と外来物』(明22年9月)]を言ったことがあったが、他界に対する観念は補助または方便にすると言うようなへりくだったものではない。あたかも潜水する者が水底に沈んで真珠を拾うように、自然界の奥に闖入して、冥想をもって他界の物をつかみ取って来ることを、詩人の尊ぶべき所とするのである。氏が外来物を方便にする一例として、饗庭篁村氏の『良夜』を引いたようなことは、私がもっとも得心がいかないことである。そうではあるがこれもまた我が国の文学に他界に対する観念が乏しいことを証明するのに十分である。

 禅学は北条氏以後の思想を支配し、儒学は徳川氏以後の思想を支配したことは歴史家が承諾する事実であるが、この二者もまた他界に対する観念の大敵である。禅学は心を法として想像を閉じ、儒学は実際的思想を尊んで他界の美醜を考えない。この二者の日本文学における関係は一朝一夕に論じるべきものではないと言っても、それが他界に対する観念に不利であったことは明瞭な事実である。

 我が文学の他界に対する観念に乏しいことは、概ね前述の通りである。写実派と理想派との区別がようやくつこうとする今日の文壇に、理想派の詩人が万人に願い求められながら出現することの遅いことも、あながち怪しむに足らないと思われるのである。

 ゲーテの思い子ファウストと共に[以下は『ファウスト』よりの引用]

もし天と地を支配する霊がいるなら、
黄金の高みから下りてきて、
私を別世界へと連れて行け。

と絶叫する理想派の詩人の出現を、遂に我が文壇に待つべきか否か。疑わしいと言わなければならない。


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