あのころ愛した非日常


ある5月の連休のことだった。
私たちは、父の友人家族と一緒にキャンプに来ていた。キャンプといっても、隣同士のバンガローを借りて泊まるというものだ。

昼のバーベキューを食べ終わり、夏の虫が鳴きはじめる夕暮れに差し掛かった頃。
母の提案で、片方のバンガローを子どもたちだけで自由に使うことになった。
私と、弟と、父の友人家族の子どもたちが3人。


見慣れない山奥の風景、じりじりと忍び寄る夜、そして、雨までしとしと降ってきた。

もちろん、母たちはすぐ隣のバンガローにいる。

しかし、世界に私たち5人だけ取り残されたような不穏な高揚感は、小学生だった当時の私たちにとって、とっておきの非日常だった。

当時私は、学校の友人関係がうまくいっていなかった。年に何度かおこなわれる、この父の友人家族との会合は、ひっそりと身を潜めていなければならない日常を忘れられる、とても大事な行事だった。
そもそもこの会合自体も、特別な非日常だったのだ。


小学生のころのわたしは、とにかく学校の怪談を描いた作品が大好きだった。
古い旧校舎、学校の七不思議、トイレの花子さん。描かれる物語は、日常から派生した、非日常の世界。


小学生たちは、代わり映えのしない毎日に、どこか飽きているように思う。
学校生活では最も長い、6年間という時間を過ごす場所。
特別な私立校を除けば、勉強も、成績が大きく影響するような世界ではない。
夏休みは、多くの小学生が、暇を持て余す。
わたしはというと、暇というよりは、周りから理解してもらえない内面的なつらさを抱えたまま、カラカラと笑うしかないような日に嫌気がさしていた。

やりたいことはたくさんあったので、学校なんか行かず、家でやりたい勉強をしたり趣味を楽しんだりできればいいのに、と思いながらも、永遠に続くかに見える6年間を生きるのに必死だった。

だから、友人とのキャンプ、子どもたちだけですごく夕暮れ、学校の怖い噂、放課後人気のないトイレ、5時間目の終わりに急に鳴り出した雷、そういったものは全て、変えることのできない日常にぽっかりと空いた、「別の世界への入り口」のように感じていた。

いつものつまらない学校ではない、どこか別の世界線に連れ出して欲しかった。

常に、非日常に憧れていたんだと思う。



今年も、夏がやってきた。
子ども時代をおくった町で、家で、今も過ごしているわたしには、今でも通っていた学校のチャイムが風に乗って聞こえてくるし、
セミはあのころの夏と同じように鳴くし、
秘密の抜け道だと思っていた通学路の途中に伸びる細道だってそのままだ。


でも、大人になった今、思うのだ。

ランドセルの重みを肩に感じながら眺めた、あの当たり前の夏空は、今は二度と触れられない宝物だったと。


終業式の開放感も、出校日のうだるような暑さも、かすかに二学期を予感させるお盆過ぎの風も、小学生の夏にしかない。

すべての日常は、いつかの非日常だ。

戻れないと思った途端に、なぜか大切になる。

小学生のころは、たしかに今よりもつらかった。

生きづらいあの閉塞感に、決して戻りたいとは思わないのだけれど、それでも刹那的な切ない何かのようなものを感じて、心が揺さぶられるのだ。

懐かしさは、いつも切なさとともにやってくる。

子どものころに見た風景は、今も同じようにあるけれど、あのころにしかなかった。


でも、HSPである自分の感性の飛んでゆくままに任せていると、ふわっとあのころの自分に、ぴったりと心が重なる瞬間がある。

小3のときにやった、かげおくりのように。


まだ10センチ以上身長が小さくて、脆く崩れそうな心を抱えていたあのころに思いを馳せるとき、好きではなかった「小学生」という時代が、ひどく懐かしく、貴重だったことに気づく。
ふいに泣きそうになる。


でも、こうも思うのだ。

きっと20年、30年後のわたしが、どこかで今の自分に心を重ね、涙を流しているかもしれない。

そう思うと、月並みな言葉ではあるが、過去や未来に意識を重ねつつも、しっかりと地に足をつけて、今を味わう感覚を忘れずにいたい。

今年も、夏がゆく。

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