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高貴な死か、卑小な生か

三島由紀夫『行動学入門』を読んでいる。

所々に三島の美意識が窺えて面白いエッセイだけど、生命の尊重を訴えるヒューマニズムやら俗世間の堕落への批判が強い。それゆえか、彼が周知の通りの最期を遂げるのも致し方ないと思ってしまう。

そして思い出したのは、数ある小説のフレーズの中でも、わたしが気に入っている以下のものだった。

「未成熟な人間の特徴は、理想のために高貴な死を選ぼうとする。これに反して成熟した人間の特徴は、理想のために卑小な生を選ぼうとする点にある」

サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』

前者は完全に三島のことを言い当てているとしか思えない。

似たような意味で他に思い出したのは、「瓦全玉砕」という言葉である。そう、本邦で太平洋戦争期に大本営発表で盛んに喧伝された「玉砕」の典拠だ。出典は中国の二十四史の一つ『北斉書』。話は逸れるが、北斉で知られている人と言えば蘭陵王こと高長恭だろうか。

大丈夫寧可玉碎不能瓦全(大丈夫は寧ろ玉砕すべきも瓦全する能わず)。
意味:立派な男子たるもの、名誉のために潔く死ぬべきであっても、惨めに生き永らえることができようか。

『北斉書』元景安伝

「瓦全」は瓦として生を全うする(卑小な生を選ぶ)という意味で「玉砕」は玉と砕ける(高貴な死を選ぶ)ことを意味する。

ヒューマニズムに逆らえない俗物で、戦後民主主義の申し子たるわたしは、三島のように理想や大義に殉ずる考え方や生き方は到底できない。それはわたしが、死して宋王朝への忠節を全うした文天祥よりも、生き永らえることで自分を取り立ててくれた燕の昭王への恩義を示した楽毅の生き方の方が好きだというのもある。死ぬことよりも生きることで意思表示したい。自分自身を表現したい。

とはいえ、三島にしろ文天祥にしろ、生き方に低俗な世間から超然と隔絶した高尚な美のようなものを感じずにはいられない。今後の人生においても、わたしの中にある卑小な俗物としての一面と、高貴さを称える一面がせめぎ合うアンビヴァレンスに陥いる場面は多々あるだろう。

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