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春の日の走馬灯

(あ、これ死ぬやつだ)

梯子から足を滑らせ、宙に舞った体はゆっくりと地面へ吸い込まれていく。周囲の景色はスローモーションが掛かったかのように遅くなり、思考ばかりは加速するのに体は一向に動かない。90°曲がった世界の中で、視界の端に散りゆく桜の花びらが舞っていた。

人はその死に際に走馬灯を見るという。死を悟った脳がリソースを全開にして、その力を十全に発揮するとき、人の認識で世界は引き延ばされたように感じるらしい。脳裏には生まれてから今日までの思い出が、まるで早回しの映画みたいに流れていく。自分の思い出である筈なのに、私は何処かそれを傍観しているようで、その感覚がたまらなく寂しい。終わってしまった物語に、そのエンドロールを眺めるような感覚は、自分がさっきまで演じていた人生という名の一幕劇を観客席から見直すような感覚だ。そこには感傷も感動もなく、ただ冷たい疲労感と諦めだけが横たわっている。

引き延ばされた世界の中で、迫りくる地面を背中に感じながら、私は私という存在が希薄になっていくのを感じる。私が消えてしまった後、そこに残るのはただ空っぽの肉体だけだ。私が私であることの証明が、その意思によってでしかできないのだとすれば、生きている人と死んでいる人との間にたいした差などありはしないのだろう。人間の生死を分かつ境界がその意思ならば、眠っている人間と、死んでいる人間に差異は無い。ただ、その眠りの先に穏やかな目覚があるか否かだけだ。

いざ喉元に突きつけられた死を目前にして、私はどうしようもなく生へ執着していることに気づいた。

「死にたくない」

きっとこれは生命の根源的な願い。私たちがこの星で命を紡いでいる理由なのだろう。やり残したことがあるわけでも、特段生きなければならない理由があるわけでも無い。だが、それでも死にたくない。死ぬのが怖い。まだ、生きていたいのだ。

泣けど縋れど地面は刻々と迫ってくる。耳を叩く空気を切る風の音、穏やかに照る日の光、どこかから匂う春の土の匂い。

スローモーションの世界の中で、死をその目前にした私以外は、どこにでもある長閑な春の日の景色だった。

落ちる、堕ちる、おちる。

最後に私が見たのは、嘘みたいに長閑な春の午後と、自分が足を滑らせた梯子だった。

ドサッ……


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意識が戻った時には私は病院に居て、不安そうな両親の顔が私を覗き込んでいた。どうやら私はまだ、この世に縋りつくことを許されたらしい。軽い脳震盪と、数本の骨折。経過観察こそ必要だが、落下した高さを考えれば、この程度で済んだのは僥倖だ、というのが医者の話だ。

夜、病室のベッドで痛む体に顔をしかめながら、今日確かに感じた死について思う。その冷たさと、やがて向き合わねばならない孤独について。その日は今日では無かったようだが、いつの日かやってくるのだろう。そしてそれは、物語のように壮大ではなく、今日のような突然に。

まだ少し寒い春の夜に、身震い一つして、私は毛布を深くかぶる。微睡の中で私は知りもしない神に祈っていた。

願わくば、その日が来るまでその孤独に再び相まみえる事の無いように。

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