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【クリスティを当時の刊行順に読む16】『シタフォードの秘密』

雪に覆われる山村で資産家の老大佐が殺された。関係者たちは現場から10kmも離れた館におり全員にアリバイがある。フーダニット?ホワイダニット?といった話。
1931年刊行。

前作がミステリなしの大河小説だったから、『シタフォード〜』のミステリらしいミステリの雰囲気にほっとしてしまう。
肌寒い日に帰宅して入る風呂のような安心感というか…いや殺人が起きているのだから安心もなにもないのだけれど。
そんな風にぬくぬくと読んでしまっていた。


※以下ネタバレ有り


そのせいで痛い目を見た。
自分が読んでいるのがアガサ・クリスティだということを忘れていた。

まず、犯人に普通に驚いてしまった。

犯人視点の章で目くらまされ(『アクロイド殺し』ですね)完全にクリスティの手のひらの上である。

そうかーー。そうかーーーー。

自分なりに腹落ちさせてから改めて考えてみると、トリックも犯人もそこまで奇抜なものではない。

それなのに、こんなに、やられた!と思うのは、殺人とは別の筋の物語がいくつも組み込まれているせいではないかと思う。

ウィリット母娘の物語、ダメな婚約者を助けたいエミリーの物語、引退して静かに暮らしたい元警部の物語…どれも殺人事件とは関係ない。

そう、関係ないけれど登場人物たちはそれぞれが主役の人生を歩んでいるのだから、それは当たり前のこと。

けれども事件が起こってしまったから、つまり関係者の動向が注目される状況になってしまったから、秘密裏に事を運びたい事情がある人間の挙動が怪しく見えてしまう。

『愛の旋律』でやっていた、脇役たちの人生も書ききる手法をミステリでやることでミスリードを誘うなんて凄すぎやしませんか??

そしてバーナビー少佐のことを考えてしまう。

“誰だってあらゆる点で自分よりほんの少しでも優れている人を、本当に好きになるのは困難なことですわ"

p418

こういうことをさらっと書いているところがクリスティ作品の好きなところだ。

「ほんの少しでも優れている人」というのがミソなのだと思う。

バーナビー少佐にとって、トリヴェリアン老大佐が親友だったことは事実だ。
それでも、同じ軍人上がりでありながら、方や不動産を貸せるほどの資産家、方やその資産家の貸家の1つのペンションに住んでいる貧乏人である。
この事実は2人の関係に影響を及ぼしただろう。
少なくともバーナビー少佐にはそうだったろう。

そこに、トリヴェリアン大佐の懸賞金当選という出来事が加わる。

なぜ?同類の人間なのになぜこうも差がつく?
運すらあいつの味方なのか?俺ではなく。

そんな気持ちになってしまうかもしれない。

読み手からすれば、大佐はかなりの守銭奴且つお金を出すべきタイミングでどんと出せるタイプの資産家だし、そもそも「大佐」と「少佐」だったわけだから退役時のお金なんかも違っただろうし、その差は妥当なものに思えるのだけれど……。

互いに親友と思えばこそ、差などないと誤認しがちで、差が浮き彫りになると苦しくなってしまうのかもしれない。

しかし、バーナビー少佐は事件前も事件後もずっと葛藤している。

トリヴェリアン大佐の遺体発見時に立っていられないほど打ちのめされてもいる。
殺したのは自分なのだから親友の死が理由なのではない。
親友の殺人をやり遂げてしまったことに打ちのめされているのだと、読了後に改めて冒頭を読めばわかる。
 
魔が差したとしか言いようのない犯行だ。

独りよがりではあるけど動機もあって、懸賞金の当選という犯行を後押しするきっかけもあって、具体的に犯行のシミュレーションもできてしまった。

しかし実際に殺人を実行するまでには大きな心理的な壁があるだろう。

それを越えさせてしまったのがあのテーブル・ターニング(英国式コックリさんみたいなもの)だ。

悪霊が大佐の死をお告げしてしまった。
親友の自分としては確かめなくてはならない。
そういう口実=絶好の機会が訪れてしまった。

作中何度も「俺とジョン(大佐)は親友なのだから」という独白やセリフが出てくる。それが罪の追及から逃れたいためだけのものとは思えない。

殺意と友情は両立しうる。ということかもしれない。
負のピタゴラスイッチが連鎖して、瞬間的に行動を起こしてしまうこともあるんだろう。
誰にだってそういう瞬間は訪れうる。

バーナビー少佐が大佐の遺品整理をする場面を思い出して胸が痛い。

アガサ・クリスティー著/田村隆一訳『シタフォードの秘密』ハヤカワ文庫クリスティー文庫76早川書房2004年


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