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忘れられたリズム

【話の通じるおとこ】
周囲の人々は、薄暗くて湿ったカビ臭い空気の中で、汗と安酒でくたくたになった髪をかきあげながら、肩を抱き合い冗談を言い合っている。
彼らは何日もシャワーを浴びていないのだろう。
体はベタつき、擦り切れてよれた襟のシャツ、くたびれたワンピース、色がくすみ白くなったレザージャケットを着ている。
そして、そこにまた今日の汚れを重ねている。
みんなの目がギラギラと輝いている。アルコールと音楽に日々溺れているのだろう。見た目の若々しさは失っているものの、体からは活気が感じられ、客観的には危険な連中に見える。

入口から見て、フロアの左隅に設けられた少し段差の付いた三角のステージで、スポットライトを強く浴びたバンドマンたちがひしめき合って、楽器を演奏をしている。
彼らはフロアにいる人々とは違って、手入れされた小綺麗な服を着て、小さな笑顔を浮かべている。
彼らは目線で確かなコミニュケーションを取っている。

ある瞬間、ピアノが自由に鳴り響く。
その身勝手なリズムに同調しながらも確かな音楽的な枠を作り出すウッドベースの音が後を追う。
タンタン、タン、タンタン、タン、ドドンドンボン、ドドンボンボンボン、、、

次には、何かの鳴き声のように周囲を巻き込むサックスと小気味良いドラムスが鳴り響く。
プワパパ、プワパパ、プワァン、トゥタラタ、トゥタタタ、シャンシャン、ドンドドン、、、

フロアにいる人々は軽く笑みを浮かべ、頭をもたげながら足でリズムを刻んでいる。

僕はその音楽を背に、硬い濃い茶色の木材フロアを歩き、持っていたグラスをカウンターに置いて、連続する2つのドアを開け、店を出た。
店外の8段程のステップを上がると街のレベルに到達する。

街はいつもどおりに、車、人々の笑い声、その反響でガチャガチャとうるさかった。
僕はレザージャケットの胸ポケットから煙草を取り出し、ジーンズのポケットからライターを取り出して火をつけ、煙を吐きながらそこらにいる人々を見た。
彼ら彼女らは携帯電話を見せ合いながらお互いの本音を見え隠しさせながら、心理戦を各々楽しんでいるように見えた。

その時、僕はさっきウィスキーを呑んだことを思い出し、胃の中に熱さを感じた。
さっきまで、背中越しに聞こえていた音楽は消えていた。

僕は、酔いを醒ますために風に当たることにした。
とにかく明るいインド人が営むカレー屋、オペレーションが絶望的なコンビニ、甘い香りのする大きな古着屋と比較的センスの良い小さな古着屋を抜けた先の角を曲がると、小さな公園があった。
角を1つ曲がっただけで、さっきまでのガチャガチャとした町の雑音は抑えられ、ひっそりと静かになった。

そこには、何らかの理由で少年や少女が数人でたむろし、ヒソヒソと話し込んでいた。
数匹の猫が飾り付けのような木の周りに座り、目を瞑りながら自分の手をペロペロと舐めている。

僕は小さなすべり台の手すりに腰を預け、さっきくわえた煙草を携帯用の灰皿で消しその中にしまった。
更にもう一本、煙草を吸おうと胸ポケットに手をやっていると、たむろしてる中の一人の少年が僕の方に近づいてきた。

少年は「おじさん煙草ちょうだいよ」と言った。
僕は「おじさんではない」と言いながら、煙草を一本、彼に手渡し自分の煙草に火をつけてから、ライターを少年に手渡した。
少年の髪は肩まであり、メジャーリーグのどこかのチームの帽子を被っている。
彼は綺麗な目と上品な口元をしていて、美しい顔をしていた。なかなか雰囲気のある少年だった。
多分、同年代の女子たちは彼を放っておかないだろう。

僕は「よくわからないけれど、煙草はまだ早すぎるんじゃないか?」と言った。
少年には僕の言葉は聞こえないのか、その言葉には反応せず、手際よく煙草に火をつけ、僕にライターを返しながら「ずっと町にいると話が通じる人とそうでない人が分かるようになる」と言った。
僕は「煙草をくれる人とそうでないかが分かるって意味か?」と聞いた。
少年は「まぁそんな感じ。でもそれよりもっと大事なこと。」と言って、また輪の中に戻っていった。
輪の中に戻った少年は、本当に子どもみたいに見えた。

僕は、少年が言った"話が通じる人とそうでない人"について具体的にどういうことなのかを考えようとしたが、面倒なのでやめた。
猫はまだ自分の手をペロペロと舐め続け、その中の一匹は僕を直視していた。 

僕は、少年少女や猫たちに背を向けて、公園から道路を挟んで目の前にある小さな洋服店にふと目をやった。
夜なので店は閉まっていて、ガラスドアやショウウィンドウなどはなく、頑丈な骨組構造のシャッターだけが降りている。店の中は電気が切れていて暗いが、注目すると町の明かりで、シャッターの間から店内が薄暗く見える状態だった。

店の中で何かが動いている。
僕は店員が在庫整理か何か事務的な作業をしているものだと思って気にせず、煙草を吸っていた。
しかし、どうも動きが奇妙なことに気付き、改めて店内を注視した。

よく見ると背の低い人間ほどのサイズのたぬきがゴルフで使うアイアンを慎重な様子で持ち、一回一回丁寧そうに素振りをしている。
そう、真剣にゴルフの練習をしているように見える。

僕は生まれてこれまでに人間以外の動物が人間らしい動きをすることを見たことがない。
正直に言うと、大学生の頃、悪ふざけで友人と大麻をやったことがあるが、その時もふらふらとして、気持ち悪くなった記憶はあるが、幻覚のようなものは見なかった。

だが、その店にいるそれは、確かにたぬきであり、ゴルフのスイング練習を一生懸命にしていた。

たぬきは練習に疲れたのか、アイアンを杖代わりにして地面を見つめながら肩で息をして、休んでいる。

僕は煙草を携帯用の灰皿で消して、公園からその店の前まで、恐る恐る向かった。
近づくとたぬきはまだ、ハァハァと肩で息をしていた。シャッターから少し離れたところから僕は「そこで何をしているんですか?」と聞いた。たぬきは「ゴルフの素振りや。見たらわかるやろ。」と言った。
「あなたはたぬきですか?」と聞くと、「見たらわかることばっかり聞くな。」と返答があった。
関西弁特有の言い回しなだけで、怒っている様子ではない。

「なんや、お前もゴルフすんの?」
「まぁ、上手くはないけど少しは。」
「前までゴルフは、大嫌いやってん。煙草吸いながらとか酷いやつは酒飲みながらプレーするおっさんとかおるやろ?オレはまぁアスリートや。オレからしたらあんなもんスポーツちゃうとおもとったから絶対やるか!思ってたんやけどな。」
「それが、こんな時間にこんな所で練習するほど、ハマった?」
「負けず嫌いやからな、うまいこと真っ直ぐ進まれへんかったら腹立つねん。」

僕は少し酔っているが正常な意識の中で改めて考えた。
僕は今、都会の真夜中に、閉店後の店内でゴルフの練習をして関西弁を話すたぬきと会話をしている。
僕は、人生は愉快だなと感じ、そう感じるとそこにもう恐怖心はなかった。

「お名前はなんとおっしゃるんですか?そもそもあればの話ですが。」
「お前なぁ、初対面で失礼なやつやな。名前はあるに決まってるやろ。名前はププや。」
「ププ。いい名前ですね。」
「せやろ?なかなか話の通じるやつやな。」
僕は、話の通じるタイプの人間のようだ。さっきの少年も同じようなことを言っていたことを思い出し、公園の方を見てみると少年少女たちや猫はすっかり居なくなっていた。

振り返るとププは店から出て、僕の目の前に居た。
ププにはシャッターという障壁は無いも同然のようだ。

「ところで、どうしたん?こんなところで。」とププは言った。
僕はその時、自分が近頃苛まれている感情を思い出すことができた。
それは、(僕は世の中に飽きていて、人生といういつまで続くかわからない現実に嫌気がさしている)ということだった。
そして、ププにそれに近しいことを伝えた。

ププは「そういうときはお前、リズムが失われとるわ。」といった。
「リズム?それは、生活のリズムみたいなこと?」と僕は聞いた。
「いや、まぁそれは確かに自分を騙すにはええけど、オレが言うてるリズムはそういうもんちゃうねん。」
「それは、音楽的なリズムのこと?」
「うん、まぁそういう表現しかでけへんからそういうことになるな。本当にバチッと合うやつと出会うと自然に体が動いて、他のことなんかしてられへんねん。飽きるまでずーっとそいつにとらわれる。」とププは言った。
「少し病的だけど、そういう中毒的な刺激が必要ということ?」と僕は聞いた。
「お前ら人間はみんな元々病気やろ。元の姿に戻るだけや。それを見つける前に元の姿を忘れてもうたやつばっかりやけど。」とププは残念そうに言った。
僕は「それはどうやって見つけられる?」と聞いた。
ププは、両手を横に広げて首を傾げて、「さぁ?」と言い、本物のたぬきのサイズにスルスルと小さくなって、公園の草木に向かって走り去った。

深く静かな真夜中に、僕は夢か幻を見ていたのだろう。
手に取れるほど現実的な、夢か幻を。

【オレンジの空】
僕は、大学を卒業した後、印刷会社に就職をした。
入社以来、取引先に新たな印刷物のレイアウトや効果的な宣伝内容について提案し、そのレイアウトの採用と合わせて印刷発注をしてもらう、という提案型の営業の仕事をしている。
小さな会社のため、営業という肩書だが部内の企画的な仕事もするし雑務処理もする。
みんなで助け合って、業務を跨り合って会社は何とか回っている。

僕は昔から小説が好きだったということもあり、大学在学中に特に深い考えもなく、魅力的な小説が世の中に少しでも増えればいい、と思ってこの仕事を選んだ。
だが昨今、小説の売れ行きは低調で、会社の売上げの内、小説に関わる売上げは全体の1割程度である。
それよりも、色々な会社の営業パンフレットや地域の広告雑誌のレイアウト提案でのインセンティブやその印刷代を主軸とした商売となっている。

働き出して、自分でも気付いていなかったのだが、僕はなかなか人に嫌われないタイプのようだ。
いや、むしろこの会社と昔から付き合いのある、古いお客さんたちは、僕に対して本当に良くしてくれる。

中小企業は生産性が低いと言われるが、効率や売上げの大きさという物差しだけでなく、温かさや助け合い、感情や貸し借りで仕事をすることが日本人の良さなのではないかと思ったりもする。
そういうものは数字では語れない、もっとレベルの高い概念のような気すらする。要は人々の生活は、金儲けだけが全てでは無いと思う、ということだ。

何れにせよ、僕はこの会社とお客さんが好きで、周りの人たちのために、真面目に働いていることが事実だ。

その日は、会社のサービスに関心を持ってくださった方がいたため、午前中はその方のオフィスで簡単なプレゼンテーションを行った後、オフィスの近くにある、古いお客さんの所に久しぶりに挨拶に行く予定をしていた。

お昼ごはんを適当に済ませ、古いお客さんに会うまで少し時間が余ったため、目に付いた喫茶店に入った。
そこは昔ながらの喫茶店で、やけにソファとテーブルが低く、ソファはくすんだワインレッドカラーで硬い絨毯のような生地をしている。案の定、座るときに「ギィ」と鈍い音が鳴った。
僕の他にはおじいさんが二人居て、新聞を読みながらくつろいでいる。二人とも同一人物に見えるほど背格好が似ている。
照明やらたばこやらの影響で、全体がくすんで見える。

エプロンを付けた、大学生くらいの女性ウエイターが愛想なく、奥から水を運んできてくれたので、僕はホット珈琲を頼み、やることもないので煙草に火を付けゆっくりと吸いながら、窓の外の町を見ていた。
街のイチョウは色づき、落ちた葉で地面が少し黄色く染められている。
そこらを歩く人たちは、忙しそうで、この喫茶店の中とは全然違った世界に住む人たちの様に見えた。
音の消したテレビの中で、タレントたちが何かを食べ、大げさで使い古された反応を繰り返している。
古いラジオから、ビートルズの「Golden Slumbers」が微かに聴こえていた。

数分後、ホット珈琲がテーブルに運ばれてきたため、半分ほど吸った煙草を消し、珈琲を一口飲んだ。まだ、時間はそれなりに余裕があった。

その時、携帯電話が鳴った。
液晶画面を見ると、久しぶりに母からの着信だった。「もしもし、久しぶりだね。どうしたの?」と僕は言った。
「久しぶりやねぇ。元気にしとるかなぁ、とおもて。」と母は言った。
「元気にしとるよ。母さんは元気にしてる?」と僕は言い、そのまま続けて「親父の具合悪いん?」と聞いた。

それから母と話をした結果、父の具合は悪いようだった。

要約すると、父の心臓が数年前から心不全の傾向を示すようになってきており、歳というのもあって最近、調子が一段と悪くなってきているということだった。
これから快復に向かって、もう良くなることは恐らく無いため、まだ比較的に元気な間に顔を見せに会いに帰って来たらどうか。ということだった。

僕は、父とは小さい頃からあまり会話をした記憶がない。ほとんど遊んでもらった記憶もない。
父について知っていることはあまり多くない。

父は地元の建築会社の役員をしている。
役員と言っても、会社の立上げ当初から一緒に会社を大きくしてきた仲間同士で社長を譲り合った結果、父が役員という立場につくことになった、とのことだ。
父は家の外では明るく、よく酒を飲み、音楽を愛し、友人を家族同然に大事に思う人であった。
一方で自分の子どもにはとても厳しく、僕はあまり褒めてもらったり、遊んでもらった記憶はない。
そして、そのまま僕は大学生の時に上京したため、あまり会話をした記憶がない。
ただ、上京するときに、父から「人のためになることをしろ。」と言われ、それははっきりと今でも覚えている。

父は僕の中で強くて、恐い人だった。
そんな父が弱っているのかと思うと人間の儚さを感じ、寂しい気持ちがした。
また、父と会って何を話せばよいのか、頭の中でうまくイメージすることができなかった。

だけれども僕は、会社に3日間の休みをもらい週末も使って、地元に帰省することにした。
会社に事情を話すと、「納得がいくまでもっとしっかり休めばいい。」と言ってくれたが、あまり長く家族と居ると色々な意味で辛くなると思い、計画通りの日程とした。

翌朝、都内はこの季節にしては暖かく、心地の良い気候だった。
品川駅構内の小さなカフェで珈琲とサンドウィッチを買って食べた。そこには朝から疲れているサラリーマンが数人。どこかからの旅行客らしいアジア系外国人が数人いた。みな僕と同じものを食べていた。
その後、新幹線で品川駅から新大阪駅まで向かった。平日のラッシュアワーを過ぎた頃のため、新幹線は快適で、不謹慎にも旅の始まりの心が浮つく感覚を感じた。
僕は、心の浮つきに流されるように、フリッパーズギターやスピッツを久しぶりにしっかりと聴きこみながら、ただひたすら、繰り返し流れる車内電子広告を見たり、煙草を吸ったりしながら移動した。

新大阪に着くと、そこからローカルな電車で数駅南へ向かうと、実家の最寄駅である京橋駅に着いた。昔と変わらず、汚い町だった。
人の温かさと日常の汚さと古くなったネオン電灯で渋滞を起こしている。
昼時の京橋は、動物が体力を回復するために眠っているように静かだ。確かに静かだが、来たるべき夜に向かって着々と体力を回復しているようにも感じられた。
静かなエネルギーを感じる商店街を抜け、少し歩くと実家についた。

実家には、母と最近飼いだしたという、黒い猫が一匹いた。父は隣町の大きな病院で入院しているとのことだった。
母の電話から実際に僕が帰省するのが思ったより早かったのか、母は「そんなに急がんでも。」と言っていた。

僕は荷物を置き、祖父母の仏壇に手を合わせると行く宛もなく、昔自分が学生時代を過ごした部屋に行ってみた。そこは今も変わらずに自分の部屋だった。
昔よく着た服、ベッド、本棚、写真、机、訳のわからない雑貨、よく聴いたCDなどが床に積み重ねられている様子もそのままだった。

部屋の窓から見える景色は、僕の記憶から少しだけ変わっていた。
そこには新しいが、安っぽくて、誰の何の思いも表現されない家屋が見えた。
僕は習慣的に煙草を吸おうと思ったが、この部屋が持つ記憶が変わってしまいそうだと思い、咄嗟に手を引いた。
それよりも、机の前に座り、父と何について話をするかを考えてみることにした。

恐らく父も僕が突然現れても困るだろうなと想像した。
なにせ、僕が何の仕事をしていて、どこに住み、どんな生活をしているかといった、僕という存在に対する情報があまりに少なく、お互い何を会話すればよいかがわからないのだ。

僕とて、父のことについてほとんど何も知らない。建設会社の役員をしていて、よく酒を飲み、友達を家族の様に大事にする。音楽が好き。
父についてはそのくらいしか知らない。
今は実際どうなのかもわからない。

病気のことは確かに気になるが、それよりも、父という人間を知る必要があるのかも知れないと思ったのは、少なくとも自分の記憶の中では初めての感情だった。
僕は父に会って、父は僕に何を期待して、親父自身どこに向かおうとしているのかを、掴みとりたいと思った。
これまでほとんど何も知ろうともしなかったけれど。

実家から父が入院をする、F病院までは車で20分ほどの距離にある。
母は、父が入院してからのこの数週間は、ほぼ毎日病院に行っており、今日も午前中に服や日用品を交換しに行ったため、僕と一緒に見舞いには来なかった。

予め母親から聞かされていた病室に向かうと、そこは二人部屋になっていた。
病室の入り口の正面に大きな窓があり、雲もなく晴れ、遠くに稜線が見えた。その山々の麓からこちらまではびっしりと都市が広がっている。
とはいえ、関東のごった返すような都市ではなく、僕にはどこか懐かしい、出来損ないの都市に感じられた。

父は入り口から見て左側のベッドで目を瞑り、静かに横になっていた。読みかけの本が開かれたまま、胸の上にうつ伏せに置かれている。
何かの本を読んでいたが、途中で眠ってしまったのだろう。
親父は、少し痩せていたが病人らしさは感じられず、元気そうに見えたが、歳を重ねた影響か病気の影響か、全体的に以前より枯れた印象は感じられた。

僕はベッドの横にある簡単な椅子に座り、父が自然に目を覚ますのを待った。
ふと、父の胸の上に置かれた本を見ると、タイトルは「JAZZ~ビ・バップの歴史~」と書いてある。
父は、昔から音楽が好きで、休日は家でウィスキーを飲みながら、お気に入りのジャズレコードをかけ、ゆったりとした時間を過ごすことが彼にとって至福の時間だった。
僕も母も音楽や酒にはあまり深く興味がなく、特にジャズの良さをしっかりと理解することはなかった。

「仕事もあるのに、ありがとう。」と前から僕がここにいることを知っていたかのように目を閉じながら父は言った。

「久しぶり。気分はどう、水を飲んで。」簡単なテレビが備え付けられた棚からコップを取り出し、冷蔵庫にあった水を入れながら僕は言った。
「俺は大丈夫や。医者は心配性だから困る。元々心臓は悪いんだ、前から特に変わらん。」と父は言った。
「歳も取ってきているから、お医者さんの言うことは聞いた方がいい。」と僕は言った。

病室は静かになった。
遠くの山の稜線に太陽の光が当たり、綺麗だった。
近く雪が降り始めるとしばらくは白い帽子を被ったようになるのだろう。

親子の距離感は時間が経っても同じままだった。
それは相手に対する嫌悪感などの否定的な心情ではなく、気の合う友達との時間のような居心地の良いものでもない、父と僕のオリジナルな距離感だと感じた。
だから、時間が経ったからと言って、無理に距離を縮めたり、あるいは離したりする必要もなかった。

「勤めている会社は小さいけど、良い人が多くて、お客さんも繋がりを大事にしてくれる人が多いよ。楽しくはないけど、誰かのために仕事してるよ。」と僕は言った。
「それが1番ええ。」と父は言って、うんうんと頷き、座り直して水を一口飲んだ。
「退院したら、東京にジャズの演奏を観に行くからその時は連絡するわ。」と父は言った。
僕は「ジャズは普段聴かないけど、まぁ楽しみに待っておくよ。」と言った。
父は「お前が大学生の頃に集めていたCD、結構いい線ついてたけどなぁ。」と言った。
僕はどうも昔にジャズのCDを熱心に集めていた時期があったようだ。自分ではうまく自分自身の記憶と結びつけることはできなかった。

僕は「じゃあ、行く。また、来る。」と言って立ち上がったとき、父は「今度来るとき、隠れてウィスキーを持ってきてくれ。お母さん真面目やから。」と言い、照れるように笑った。
僕は、笑って頷き、そのまま病室を出た。

病院を出て、駐車場まで歩くとき冬の空気の冷たさが頬に当たり、顔だけが冷えた。
父との距離感は特に縮まったという程ではなかったが、一方で病室での短い数分間は、確かに親子としてのつながりを感じることができた時間だった。
もしかしたら、父もそう感じたのかも知れない。

僕は車に乗り、実家に向かいながらさっき父が言った言葉を思い出していた。
父は、僕に「お前が大学生の頃に集めていたCD、結構いい線ついてたけどなぁ。」と言っていた。

カーラジオから、スネオヘアーの「気まぐれな季節のせいで」が流れていた。
僕自身は深く覚えていないが、熱心に当時の自分にしっくりとくる音楽を手当たり次第、探していたのだろう。それは思春期に漏れなく陥る、落とし穴のようなものだ。

僕は自らその落とし穴の中にもう一度入ってみて、そこで僕自身が見つけたものを振り返ってみようと思った。
それは、単にセンチメンタルな気分に一時浸るだけなのかも知れない。
あるいは、そこには僕がいつのまにか失ってしまった、重要な何かがあるのかも知れない。

家に戻ると母に父との面会は悪くなかった旨を伝え、早速古くなった自分の部屋へ入った。
クローゼットの中に、ダンボールにとにかく入れてある沢山のCDやらMDを床に全部出してみた。

そこには、ロック、パンク、ジャズ、レゲエ、ヒップホップにポップソングと一つひとつには繋がりの無い、音楽たちがあった。

CDのジャケットを一枚1枚確認していると、それぞれに懐かしい記憶が蘇ってくる。

友達と電車で行った海水浴、クラブ活動の帰りに一人で遅くに歩いた帰り道、好きな人と手を繋いで歩いた通学路などがまるで昨日のことのように、色濃く、その時の匂いまでも頭の中で再生することができた。
その作業が段々と楽しくなって、順に吟味していると、外に繋がる部屋の窓から、手慣れた様子でププが入ってきた。部屋に入り、ベッドの上を無遠慮にスタスタと踏み渡り、床にあぐらをかいて座った。そして、「思い出しそうか?」と言った。

僕は、「父のいい線までいっていた、という言葉をヒントに今、探してる。」と言って、二度目のププをそれほど驚くことなく受け入れた。
ププも僕と一緒に過去のCDやMDを1枚一枚見ていた。

かなり長い間、僕とププは言葉を交わさず、そこにある過去の音楽たちを見ながら、記憶を再生し、単なる思い出か、そうでないものかを探していた。

数十分後に、ププは「どうや?見つかりそうか?」と言った。
気付けば外は夕暮れ時になり、窓から見える空は、青と白が混ざり合い、家々の屋根の辺りでオレンジに燃えていた。
「父が言っていたジャズで言えば、個人的にはビル・エヴァンスがやはり良いなと思う。最近あまり聴けていなかったけど。」と僕は言った。

ププは「俺はやっぱり『げんこつ山のたぬきさん』が最高やわ。」と真面目な顔で言い、「おっぱい飲んでねんねして、てところが最高やん。」と続けた。

僕は勝手に作り出した心の緊張の糸が切れて、笑った。
ププは何がおもろいかわからんという顔をしながら、でも僕と一緒に笑った。

夕暮れが最高潮に美しい時間で、鳥が黒い影のように集団飛行をしていた。

ププは「全部大事なんやったら、優劣なんかわざわざ付けること無いんちゃう?」と言った。
そして続けて、「リズムはちゃんとそこにあるのだ。」とわざとらしく言い、その時に部屋に流れていた、くるりの「ワールドエンド・スーパーノヴァ」に合わせて、腰をくねらせ手をなびかせ、踊った。

僕も楽しくなって、ププと背中合わせになり、踊った。
曲が終わるまでその調子で踊り、次の曲が始まっても踊り続けた。

たぬきと共同で作り出すダンスはなかなか魅力的だった。そこには普段の生活には無い類の感情があった。

二曲目が終わる頃、ププは消えていた。

僕は部屋を飛び出し、レザージャケットを着て、煙草を胸ポケットに入れ、今目覚めたばかりの街に繰り出した。

頭の中にはどんなジャンルにも該当しない、僕だけのリズムが繰り返し、鳴り響いていた。

















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