見出し画像

究極の修行

「今日もうまくできなかったな、なんか落ち込むわ」

人は上手くいかないことがあると、なんだか気持ちが沈んでしまうことがある。上手くいかないこととはつまり失敗のことである。誰もがこの失敗というものをなるべく避けていきたいと思っている。その一方で、一部の人間からすると、失敗は成功のもと、失敗を繰り返さないと成功は得られないなどという人もいる。正直どちらがよいのか、失敗があるのか、失敗がないのか、それは個人の意向に委ねるとしか言いようがないのだが、おそらく誰もが失敗しようと思って失敗しているわけではない。失敗はあくまで結果でしかない。では、この失敗というものを続けること。つまり、できないという体験をし続けるということはどういうことなのだろうか。これを僕は究極の修行と捉えている。先ほど、後者で述べたように失敗を前向きなものとして捉えることができる人には全く問題はないように思う。しかしながら、前者の方、失敗を上手く次に活かせずに落ち込んでしまう人にとっては大問題として扱うしかなくなる。できない自分を見続けるということは本当につらいものである。けれども、いつまでもできない自分でいるとどうなるだろうか。これは何十メートルも高い所から落ちてくる滝に打たれ続けているような修行である。ずっと打たれ続けてるのだから、ボクシングで言えばずっとジャブやらフックやらダウンしない程度に打たれている状態である。出来ない自分に耐え忍ぶ毎日、想像しただけでつらいとしか思えない。間違いなく強くはなるだろう。そこで倒れない限りは。ただ、本当にそんな修行をし続けていてもいいのだろうか。もっと他にやるべき修行があるのではないか。勉強したり、本を読んだり、運動してみたりと、ありきたりなことを挙げてみたが、それもまた出来ないということもあるかも知れない。だったら、たまには出来ることをやってみてもいいのではないだろうか。どんな小さなことでもいい。もちろん、そんな小さな出来たことなどで満足しない人もいるだろう。それなら、自分が求めていることや自分が自分自身に期待していることのレベルを知るいいきっかけにもなるはずだ。

できない、できないと言い続けて、ギザギザつきの石段の上に正座させられて漬物石を足の上に置かれるような昔の武士の拷問のような時間を過ごしていてもいいのだろうか。いつでもその漬物石を自分の手でのけてもいいのに、石段から立ち上がってもいいのに、そんな自由があるのにも関わらず、なぜいつまでもその場所にいるのか。そんな究極の修行をいつまでもしている場合ではない。もっと高度な、もっと自分の求めているレベルになるような修行を選択していいのだ。

できない、できないと言い続けてきた修行はもう抜け出してもいい。

この先どのくらいまで自分を高めることができるか分からないが、いけるところまで限りなくいきたいと思えてきたんじゃないか。

~fin~

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?