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新卒内定0だった僕が、宅配便業者に就職したのち芸人を夢見て上京したけど未だに肉体労働から抜け出せていない話

就活で40社以上落ち内定が0だった僕は、社会に必要とされていないんだと絶望を感じ、同じく社会に必要とされてなさそうな友達のワタコを芸人に誘った。
するとワタコが、就職は決まっていたものの社会に必要とされなくなるのも時間の問題であろうトミーと一緒にやろうと提案し、青いデルタは僕とトミーの大学卒業間近で結成された。(ワタコは浪人したので一年遅れ)

当時、僕らは養成所に通うつもりはなかった。
ワタコが大学4回生の間は夜行バスで東京に行き事務所のオーディションを受け、大学卒業のタイミングで上京しようという話になった。
トミーは社会人、ワタコは大学生、僕は宙ぶらりんな状態であったためとりあえず来年のための上京資金を貯めようと職を探した。
この頃、コロナの緊急事態宣言が出たかなり逼迫したタイミングであり、僕は大学を卒業しても続けていようと思っていたバイトをクビになっており、全ての身分と肩書きを剥奪された状態だった。

調べると物流はコロナ禍でもあまり関係ないという事であったので、収入の安定したとある宅配便業者の面接を受けた。
面接と一応の試験みたいなのがあり、無事合格。
就活はあんなに失敗したのに、こんなにもあっさり働けるんだと思った。
僕は“○川男子”という肩書きを獲得することができ、そして自宅から一駅ほどの営業所へ契約社員として配属された。

営業所の所長は体育会系な30過ぎの男性だった。
軽く仕事の説明を受けた後、所長に「学校どこやったん?」と聞かれた。
僕が「関西学院大学です」と答えると、
「あ、違う、中学」と言われた。
僕がただ学歴を自慢したかのような空気が2人の間に流れたが、これはいくら地元近くの営業所とはいえ、初手で出身中学を聞いてくるイレギュラーな所長に問題があると思った。

かく言う僕も新卒採用ではないのに入社したタイミングが大学卒業直後の4月で、入社する人のほとんどが中途採用か高卒の新卒のなか、僕の関西学院卒業という学歴はかなりイレギュラーだったらしくそれが噂として社内に広まった。
なので入社してから数週間は初対面の上司に挨拶するたびに「君があの!?」と序盤のハリーポッターのような対応を受けた。

僕の配属された営業所は僕を含め7人が働いていた。
そこはトラックや軽自動車で地域を周るのではなく、ビジネス街の1区画を徒歩で大きな台車を押して周る営業所だった。
辞めてからもう3年程経つが、今でも全員の顔や性格をはっきりと覚えている。
それほどに個性的な人達が集まっていた。

僕に仕事を教えてくれたNさんは確か僕の3歳上くらいで、元スペイン料理のシェフだった。
店がブラック過ぎたため体調を崩し、彼女と同棲していて結婚も考えていたため、収入の安定しているここに転職すると決めたらしい。
あと、お父さんも近くの営業所で働いており、色んな上司から2世扱いされていた。

他に僕に積極的に話かけてくれたKさんは元アーティストで絵を描いていたらしい。
絵は趣味程度に収めてお金のために働く事を決めたそうだ。
いつも両手に黒のリストバンドをしていて、まぁ重い荷物を運ぶし手首を痛めているのかなと思っていたが、聞くと両手首にタトゥーが入っているからという理由だった。

休憩時間は主にこのお2人が一緒に過ごしてくれた。

あとは前述した体育会系でセクハラの噂が絶えない所長と、僕と同い年でお腹に赤ちゃんのいた副所長のギャル。
彼女とは同い年という事もあり凄い気が合い、旦那の愚痴含め色々な話をした。
その彼女と2人組で彼女の手となり足となり働いていたDr.オクトパス似(スパイダーマンの敵)の大きなおじさんはお互い元ガソリンスタンド店員という話題で盛り上がったし、みちょぱを800時間燻製させたような見た目のシングルマザーは仕事を手伝えば必ず缶コーヒーを奢ってくれ、「仕事中に雨に打たれたらもう風呂には入らない」と豪語する前歯を完全に失ったお兄さんは仕事で自分の気に入らない事があったらブチギレていたけど、最年少の僕にだけは優しく弟のように接してくれた。

会う人会う人が今までに出会った事の無いタイプの人ばかりだった。
絶対にここでしか交わることの無い人々が集う空間は決して心地が良いとは言えないが、そんな人達のこれまでの色々な話が聞ける事は、芸人を目指す単純ではない人生を歩もうとしていた僕にとってとても楽しく有意義だった。

でも僕は色々な人の色々な話を聞かせてもらっておきながら、自分自身が芸人を目指している事を黙っていた。
夢を追っている最中ならともかく、夢を追おうと思っているくらいの段階だったので言う必要が無いと考えていた。
でもこれが僕の存在を余計にややこしくさせる。
僕は職場ではハキハキして元気も良かったし、仕事にも真面目に取り組む。
そして割と皆から可愛がられていた。
故に気味が悪かったと思う。
特に事情も無いのに、就職せず、新卒と同様のタイミングで入ってきた活発な若者。
皆1回は「何で就職しなかったん?」と聞いてきたが、それとなく流すとそれ以上は聞いてこなかった。
色々な経験をしてきた人達だからこそ深くは聞いてこなかったのかなと、今になって思う。

1度僕が仕事中にとんでもないクレーマーのおばさんに出くわし、そのおばさんに会って5分と経たぬ内に「あなたのそういう反抗的な目が気に食わないのよ!!」
と言われる程揉めて営業所に帰ってきた事があった。
「俺がつり目なだけやろが!!」と僕がブチキレている様子を見て先輩達に「カメちゃんも人間やねんなぁ」と言われた。
そう言われるくらいの気味の悪さを周りに感じさせていたんだと、その時気付いた。

他にも覚えている事は沢山ある。
重たくて大きい段ボールの効率的な持ち方。
コロナの緊急事態宣言中だったので、完全防備の状態で出てきて配達員の僕をウイルスそのものかと思っているような住人の顔。
「こんな状況なのにありがとうね」と優しくアイスをくれた住人の顔。
めちゃくちゃ重たい水を頼むのにいつも不在の奴のマンションと部屋番号。

僕はそんな仕事を3ヶ月で辞める。
東京にオーディションを受けに行くために、平日に休めるシフト制の仕事の方が良くなった事が理由であったが、本当は居心地の悪さを感じていたからかもしれない。

ここにいる人は皆、生きるために働いていた。
皆が家族や自分の生活のことを考えてお金の為に働く場所だった。
当時の大学を卒業したばかりで芸人になることを夢見ている実家暮らしの僕にとって、生きることと働くことはイコールでは無かった。
何かに挫折したり何かを諦めたり何かの責任を負ったりと、僕は営業所内で唯一ここで働いていい精神的な条件を満たしていなかった。
何かの踏ん切りをつけた人達に対して、僕がここに居るには早過ぎたのだ。
それ故に言語化出来ない不思議な居心地の悪さを感じていたのかもしれない。






上京して養成所を出て芸人という肩書きを手に入れた。
でも勿論お笑いだけで生きていける訳がなく、僕はアパートの清掃の仕事をしている。
毎月決められたアパートの清掃を屋外で丸1日1人でこなして給料を貰う。
今の僕は働かなくなったら飯が食えなくなり、ゆくゆくは死ぬことになる。
だから今の僕にとってこのアパート清掃の仕事、つまり働くことは生きることと同義だ。
ここまでは来れた。
あとはお笑いを生きる為に出来るようになれば、僕は自分の仕事が「芸人」であると言えるだろう。

今はまだ、「アパート清掃員」





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