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【読書日記】8/2 文豪が実は苦手。「らんたん&出世と恋愛 近代文学で読む男と女」

先日、『らんたん』(柚木麻子 著)を読んでいて、主人公の河井道の文学観に共感しました。

少女時代の道が小公女などのバーネット作品に魅せられて思うこと。

どんなに名作と呼ばれるものでも、女の人や子どもが悲惨に描かれたり、読んだ後に自分が前向きになれないものは、道は嫌いだった。日本の大人向きの小説はどうも女の人が死にすぎる気がして、あんまり読む気がしない。

「らんたん/柚木麻子 著」より。河井道は小公女が好き。

まさに、私が中高生くらいの頃の感想そのものです。
夏目漱石を筆頭に明治から昭和初期の文豪と呼ばれる方々の著作を読んで、心の底から湧き上がってくる不快感が拭えず「これが名作なら、私は読まなくていいや」と開き直ったときの気持ちを思い出しました。

「らんたん」の中では、この後、徳富蘆花の「不如帰」や有島武郎の「或る女」を巡る展開もありますが、男性作家たちのいけ好かなさは格別です。(もちろんこれは物語ですけれど)

さて、本を読んでいると不思議と関連する書籍が手繰り寄せられてくることがあるのですが、今回も時を同じくして『出世と恋愛 近代文学で読む男と女』(斎藤美奈子著/講談社現代新書)に出会いました。

斎藤美奈子さんは、「出世と恋愛は文学の二大テーマ」とした序章で語ります。

日本の若者たちは、みな、うじうじ、ぐだぐだ悩んでいる。若い頃には、それが本当に嫌だった。

斎藤美奈子氏による「青春小説」の若者。

はい、その通りです。私も嫌だった(今でも嫌だ)
さらに言う。

(愛し合う)二人の仲を引き裂こうとする罠は、方々に仕掛けられている。
 それをひとつひとつ乗り越えていくのが恋愛小説の醍醐味ともいえるのだが、なぜだか日本文学の恋愛はゴールに到達することなく、女性の死で終わるのである。
 なぜ彼女は死ななければならなかったのか。

斎藤美奈子氏曰く。日本の作家は「恋愛」「大人の女」を描くのが苦手???

まったく、その通り。勝手に殺すな。

本書では、明治から昭和初期、近代文学を時代背景を追いながら男と女、出世と恋愛に焦点をあてて紐解きます。
それは、うだうだぐだぐだの青年をばっさばっさと切り伏せていくような爽快感に満ち溢れています。
なお、「らんたん」で取り上げられていた「不如帰」や「或る女」も俎上に乗せられていたので併せて読むと面白さ倍増です。

第1章 明治青年が見た夢
 夏目漱石「三四郎」森鴎外「青年」田山花袋「田舎教師」
第2章 大正ボーイの迷走
 武者小路実篤「友情」島崎藤村「桜の実の熟する時」細井和喜蔵「奴隷」
第3章 悲恋の時代
 徳富蘆花「不如帰」尾崎紅葉「金色夜叉」伊藤佐千夫「野菊の墓」
第4章 モダンガールの恋
 有島武郎「或る女」菊池寛「真珠婦人」宮本百合子「伸子」

「出世と恋愛」で取り上げられる小説。

斎藤美奈子さんによる青春小説の王道パターンは以下の通り
 1.主人公は地方から上京してきた青年である
 2.彼は都会的な女性に魅了される
 3.しかし彼は何もできずに、結局ふられる

そして「失恋」は、「自分より成功した男」を女性が選ぶことが原因となる。すなわち「女の打算、裏切り」のモチーフです。

いかにも女性が悪女のように見えるこのモチーフですが、斎藤さんに言わせると『嫌いになったわけでもないのに、女が恋人を捨てる多くの理由は『「待ちくたびれた」か「見限った」かだ。』と。

女性の生き方が非常に限定されている中で、自分の人生をより良いものにするには結婚相手をいかに選ぶか、が唯一にして重要な課題であった時代です。
手前勝手な夢ばかり追って自分を顧みない相手、不機嫌で自分の話を聞こうともしない相手、世間を気にして煮え切らない相手にいつまでも付き合いきれなかったからといって「心変わりだの打算的だのと罵られるいわれはない」と。
『それを「女の裏切り」と思わせるのが、男性を主役とした近代文学のマジックである』と。

かつて私がこれらの「名作」を読んだとき、どれを読んでも女性とはなんと浅はかで俗物的な存在なのか、と糾弾されているようで、胸の奥をざらつかせる砂が蒔かれたようで不快だ、と思っていたのですが数十年ぶりにすっきりとしました。

そして、本書の最後に「戦争と恋愛小説の危うい関係」を考察する終章が置かれています。
ホモソーシャルな世界で醸成される文化、そして女の死で終わる「美しい」物語への考察は、今の時代だからこそ考えさせられるものでした。

本書に取り上げられているような「名作」、若い頃に読み捨てたっきり再読することもなかったのですが、年を重ねた今の自分はどのように読むのか、興味がでてきたところです。