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事実に対する前向きな諦念 【ユタカジン】

きっとあなたは、タイトルにある「事実に対する前向きな諦念」というフレーズにあまりピンとこないでしょう。
なぜ分かるかというと、このフレーズは大学2年生の時に僕が(勝手に?)思いついたものだからです。

ふと頭に浮かんだ言葉ですが、座右の銘とまでは言わないものの、なんとなく気に入っているので頭に残っています。

今回は、このフレーズの込めた意味合いとタスクシュートの「ログ」について考えてみようと思います。

つらかった先に行き着いたフレーズ

大学2年生の冬、とある辛いことがありました。

恥ずかしいので具体的に何があったかは書きませんが(人の不幸とかではないです)、あまり味わったことのない感覚で、頭の中ではそのことをずっと考えていました。
何もやる気が起きず、ただただ時間が過ぎ去っていっているだけ、という記憶が残っています。

残念ながら、当時はタスクシュートをやっておらず日記もつけていませんでした。
そのため、当時のことはあやふやな記憶になってしまっています。ただ、恐らくその「やる気が起きない」状態にすら飽きてしまったのか、
「自分の力ではどうしようもないことを、ぐるぐるくよくよ悩んでも仕方がない」
という考えに至りました。

そうしてふと頭の中に浮かんだフレーズが、

事実に対する前向きな諦念

という言葉なわけです。

若干カッコつけたような言葉なわけですが、要は

事実|現実に起きたこと、起こってしまったこと。
諦念|諦めること。何をどう頑張っても起きたことは変えられない。現実を受け入れるしかない、という諦め。
前向き|現実を受け入れて先に進む、行動を起こす、現実を動かすしかない、という意味での前向きさ。良い意味での開き直り。

という意味合いがあります。
よく言われるような考え方を、自分なりに言葉にしただけといえばそれだけですね。

「諦念」という言葉にはネガティブなニュアンスが漂いますが、そこに「前向きな」とつくことによってポジティブさが付け加えられ、フレーズ全体としてはフラットな雰囲気を感じ取ってもらえるかなと思います。

当時の自分は、そういう考えに至ったあと、「やる気がない」状態から吹っ切れて、良くも悪くも「無」のような状態になりました。
ちょうどその頃は冬休みに入る直前で、学期終わりのレポート課題が出されていた時だったので、目の前にあるレポート課題に無心で取り組みました。
何の課題だったかは覚えていませんが、とにかくひたすらパソコンに向かって文章を打ち込んでいた気がします。
そして、課題はいつの間にか終わっていました。

このことが印象的で「事実に対する前向きな諦念」という言葉が頭に残っているんだと思います。

起こった現実を受け入れて、目の前のことを淡々とこなす。
この強力さを思い知った出来事でした。

それから、ことあるごとにこの言葉を頭の中で思い出し、目の前にあることをとにかくこなすことを意識するようになりました。

もともと逆算的な人間でしたが、こういうことに心地よさを感じていたことを見るにつけ、実は順算的な考え方が性に合っていたのかもしれません。

いつの間にかこのフレーズも頭の隅に追いやられていた

ただし、その強力さを知りつつも、実践するのはなかなか難しいものです。しばしば感情や未来思考に邪魔をされてしまいます。

過去の記事で紹介したように、大学で研究を始めてから、なかなか良い結果が出ない状況に焦りや不安を感じるようになりました。

このままだと研究者として終わってしまう。。
自分のキャリアはどうなってしまうのだろうか。。

そんな未来のことばかり考えて、うまくいかない自分を責め、目の前のことに集中することができなくなっていました。
そして、自分で思いつき時折奮い立たせてくれた「事実に対する前向きな諦念」というフレーズも、いつの間にか頭に浮かぶことはなくなっていました。

タスクシュートを始めてから思い出した

すっかり忘れ去られていた言葉ですが、また頭の中に浮かんでくるようになりました。
それは、タスクシュートを始めてからしばらく経ってからです。
(気がついたら思い出していたので、正確にいつかは覚えていない。。こういうこともログに残しておくと後々嬉しいなあと思いますね)

タスクシュートは、「やったこと」と「やっていること」と「これからやること」が直列に並びます。日々過ごしながら、それが必ず目に入ります。

やったこと(緑)、やっていること(青)、これからやること(灰色)

この並びが、まさに「事実に対する前向きな諦念」を自然と促してくれることに気がついたわけです。

先に説明したように、

事実|現実に起きたこと、起こってしまったこと。
諦念|諦めること。何をどう頑張っても起きたことは変えられない。現実を受け入れるしかない、という諦め。
前向き|現実を受け入れて先に進む、行動を起こす、現実を動かすしかない、という意味での前向きさ。良い意味での開き直り。

であり、その上で「今やっていること」「これからやること」に向き合う姿勢を表した言葉です。

タスクシュート上に残っている「ログ」は「事実」そのものであり、それは変えることができません。厳密にはログを削除したり時間や名前を変えることはできますが、それは行き過ぎると現実を歪曲してしまうことになります。

つらいことであっても、逆に嬉しいことであっても、タスクシュート上にはそんな「事実」が必ずそこに示されます。そして、そのすぐ先には「今やっていること」と「これからやること」が並ぶ。

変えられない「事実」をふまえて、今、そしてこれからどうするか、ということへの前向きな意識が無理なく自然と働くような作りになっていると実感します。

ログを読んで事実を知る

頻繁ではないものの、生きているとどうしても受け入れ難いことに遭遇してしまいます。

日常によくあることだと、誰かに嫌なことを言われただとか、仕事で大きな失敗をしてしまっただとか、早く寝なきゃいけないのに何もやりたくなくてダラダラ夜更かしをしてしまうとか。
大きなことだと大切な人との離別などもあると思います。

必ずしもすぐに受け入れられるわけではないですよね。
でもどうにか受け止めて前に進むしかないのもわかっている。

だからこそ、まずは受け入れる云々の前に事実を知ることから始めても良いんじゃないかなと思います。
そして、それはタスクシュートのログを読むことで実現できます。

日常のありふれた出来事も、目をそらしたくなるようなことも、リアルタイムにタスクシュートに書き残す。リアルタイムにやっていれば大した手間ではありません。10秒くらいで終わります。
そしてそれを1日の終わりに読む。受け入れようと思わずに読んでみる。
読むのすら嫌だったら「タスクシュートを読みたくない」という事実をログに残す。
時折そのログを読む。これを繰り返す。

この日々の繰り返しが訓練(というと堅いのですが)のようになって、日常のあらゆることが受け入れられるようになってきます。なんとなく、過去の自分と今の自分が一体になった感覚が得られます。
そして、その今を起点として今、そしてこれからに集中して向き合うことができるようになります。

これがもしかしたら「事実に対する前向きな諦念」を手にした状態だと言えるのかもしれません。

もしもしかめよ かめりんでした。


本記事はタスクシュート協会メンバーが運営する「ユタカジン」への寄稿記事です。
ユタカジンとは「自分らしい時間的豊かさを追求する」をテーマとして、時間や習慣、タスクシュートなどなどにまつわるお話が連載されていくマガジンです。
明日以降も続々と「ユタカジン」に記事がアップされていきます。
ぜひ本マガジンをフォローして日々のささやかな楽しみにしてくださると嬉しいです。

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