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高木康子さんインタビュー①「いま生きとるんが天国ちゃうかな、確かに」
高木康子さんは、1958(昭和33年)3月3日、大阪・南河内生まれの60歳。
28年前に大分県に移住。現在は竹田市で機織りをしたり、染色をしたり、布の服を作ったりしています。
つい最近も、たくさんの糸を独特なレインボーカラーに染め上げていました。
![画像1](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/9857943/picture_pc_133eb2caec24f58480e38565cf30e246.jpg?width=800)
https://www.facebook.com/yasuko.takagi.16
(↑高木康子さんのfacebookページ)
康子さんは、竹田市の廃校・旧宮砥小学校で「さをり織り」の教室を主宰しています。作陶家のお連れ合い・高木逸夫さんと2010年に開いた「宮砥工藝舎」と呼ばれるその場所には、色とりどりの糸がいっぱい。開講日にはいつも、集まった人々の機を織る音と笑い声が響き渡っています。
聞き手(三浦)は以前、康子さんから機織りを習っていましたが、出産を経て今は教室を休んでいます。以後、教室を休んでからもずっと友だちとして接してくれる康子さんの優しさや、広々とした心に驚かされることもしばしば。これまで決して平坦な人生を歩んではこなかった康子さんに、人生のことや、創作のことなど、話の行き着く先までとことん聞いてみようと思いました。
連載のタイトルとなった「いま生きとるんが天国ちゃうかな、確かに」という言葉は、8回続きの連載終盤に登場しますので、よかったら探してみてください。
(※連載は1日置きの更新を予定しています)
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さて、取材当日(2019年1月9日)
「なにすんの?今日一体なにすんの?」と、なんだかちょっと心配そうに尋ねてくる康子さんにまずはここ、竹田に移住してきた頃のことを尋ねました。
ーー何年前に竹田に来たんやったっけ?
康子さん(以下・康):
覚えてないわー、全然覚えてないわぁ。
イチから聴くのん?(どこか不安気)。
…28年前から大分。竹田は11年ぐらい前
ちゃう?違う?2009年って何年?平成
21年?22−11は?
あ、ほなちゃうな。
まあ、大体でいいわ、笑
ーー全然合ってない上に大体でいいんかい!
でも、そうは言いながら…結構きちょうめんな康子さんは、印刷されたプロフィールを出してきてくれました
![画像2](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/9858825/picture_pc_00618ed7f15625889716ffa4a74fe187.jpg?width=800)
↑どうやら大分・別府にきたのが1991年で28年前、その後清川村(現在は豊後大野市清川村)に1992年に移住。竹田に来てからは13年が経っているようでした
ーー以前は大分でも教室をやってたけど、
いまは宮砥工藝舎だけかな?
康:そうそう、今は宮砥だけー!
○アンナのおばちゃんとの出会い
ーー教室の始まりは?
康:結局な、最初は(1993年=平成5年頃)
大分市の鶴崎にあった「アンナの家」と
いうところで始めたんよな…。アンナの
おばちゃんが「機織り教室しいや」って
ゆうてくれて。(アンナのおばちゃん=
「アンナの家」のオーナー・溝口えつこ
さん=当時45歳くらい)
ーーアンナのおばちゃんとは何で知り合いに
なったん?
康:当時大分の街にあったダイエーの裏に、
面白い店があるって聞いてな、
(そこに客として)行ったんや。
多国籍民芸雑貨と駄菓子のお店。そこで
初めて出会ったんや。「アンナの家」は
お店とは離れたところにあったんやけど
おばちゃんの持ち家で、元旅館。使える
部屋がいっぱいあった。
おばちゃんはあたしとは10歳ぐらいしか
変わらんけど「おばちゃん」言うてた。
一番最初、教室のことがいきなり新聞に
載ったんやないかな。生徒さんが40人も
きたんや。
そこで教室を何年もやってた。
○「自分には無理です」て言うてた
康:アンナのおばちゃんて面白い人やねん。
…三浦順子ちゃん(聞き手)は、いつも
あたしのことを「突っ走ってる」ていう
けど…おばちゃんはその頃あたしにな、
10年先くらいのアドバイスをくれた。
で、いつもおばちゃんから「いま動かな
あかん」とか「いま走らんでどうする」
みたいな感じで言われていたんよ。
ほやけど、あたしは断ってた。
ーー断りよったん…
康:「無理です。今の自分には無理です」て
断ってた。おばちゃんは、それでも結構
辛抱強く待ってくれたんちゃうんかな。
結局おばちゃんのいう通りにはならへん
かったけど。
○時空を超えて生きているような人
康:おばちゃんは、時空を超えて生きている
ような人やった。とにかくそこに留まら
へんねんな。あたしには小さい子どもも
おったし…「機織り教室をやりなさい」
ってアドバイスしてくれたけど、あたし
は当時住んでいた清川村から、のこのこ
出て行かなあかんかったんよな。
(注…清川村から大分市までの距離は約
50㎞・康子さんは運転をしないので、子
連れでの移動は結構大変)でもアンナの
おばちゃんからしてみたら、その距離感
っていうのは大したことないねん。
実際、おばちゃんはさ…自分の子どもが
小さい時、旦那さんに任せて中国大陸に
渡ったんやて。それから、今はタイにも
家があるし。「子どもは自分で育つ」て
…そんな感じ。すっごい言うてることが
奥が深かった。せやけどあたしは自分の
実家もこっちにないからか、どうしても
やっぱり、ここに根を張る方向にいく。
だから引きこもるやん。出かけることが
そんなに好きでない。かといって家庭を
かえりみるわけじゃないんやけど。
あんまり動きたくなくって、教えにいく
よりも自分の創作とか、そっちのほうに
いきたい感じやったんよ。
![画像3](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/9859488/picture_pc_1587ae2c0472410f589fe6e5c009f3d5.jpg?width=800)
↑宮砥工藝舎のベランダに立つ康子さん
○あのーすごく低いレベルでな、笑
康:おばちゃんは起業家で、自分ではものは
作らない。…真逆やったんよ。あたしは
というと自分の作る洋服は一点もので、
自分のオリジナリティーを追求して人の
ものまねをしないことがポリシーなんや
けど、おばちゃんは、縫製は人に任せて
デザインは(売れ筋の商品などを)研究
したりして売る。「そうすればちゃんと
生活できるから」って、アドバイスして
くれとったんや。
たぶんね、おばちゃんのアドバイスで
やってたら食べていけてたと思うわー!
フフフフフフ!
ーーいま食べていっちょんやんか〜
康:あのー、すごく低いレベルでな、笑。
なんか「生きてる」て感じ?それこそ、
今年もまだ展示会とか半年しか決まって
へんで?毎年そんな感じなんやで?
先のことは分からへんねんで。
でも…たぶんな、あたし、なんかこう…
ちっちゃい時から結構お金は与えられて
たんや。
「こんなん買ったらあきません」とか、
セーブされたことないから、あんまり、
貧乏を貧乏やと思ってないとこあんねん
なぁ。だけどまあ、すっごい貧乏なんや
と思うんよ今も、笑。
せやけど…、お金が嫌いていう訳でも、
好きていう訳でもなくって、
なんていうのかな…、執着があまりない
んやなー、きっと。
「小さな頃からお金は結構与えられた」と笑いながら、つぶやきながら語る康子さん。聞き手である三浦は、その本当の意味が分からずにただ、うなずいているばかりでしたが…。
※インタビュー②に続きます
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