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推しの逮捕とどう向き合うか「成功したオタク」映画感想文

 タイトルである「成功したオタク」とは、韓国語で「ソンドク」
 推しに認知されたり、ライブのチケットを買えたりしたら、それで「成功」の扱いになるらしい。
 オ・セヨン監督は推しのサイン会に韓服で参加し、ファンの一人としてテレビにも出演し、推しに認知された「成功したオタク」だった。
 大好きなその人が、性犯罪で逮捕されるまでは。

 前から観に行きたいとは考えていたのだが、愛知県だとセンチュリーシネマでしか上映されない。しかも公開初日から1日一回のみの上映。
 早めに行かないとヤバそうだと判断して、数年ぶりにセンチュリーシネマに行くことに。

PARCO東館が完全にオタ向けになっててびっくりした

 センチュリーシネマのスクリーン2には初めて入った。45席の小さなシアター。
 「成功したオタク」は監督のドキュメンタリー映画で吹き替えもないので、基本的に字幕が画面中央下に表示されているのだが、なんと前の人の頭がちょうど字幕の真ん中くらいを遮っている。
 しかも途中で寝始めたのか、頭がグラグラしていて位置が安定しない。字幕を読むために必死に首を左右に傾ける私。
 そんな状態でこの映画を観たので、字幕を100%読めたわけではない。
 特に文章終わりが読み取れなかったので、ニュアンスが違っていたら申し訳ない。

 監督ほど個人として思い入れていたわけではないのだが、私も自分の生活を彩ってくれた人が性犯罪で逮捕されたことがある。その人は私のとても好きな曲の作曲家だった。
 その曲だけを毎日繰り返し聴いていた日々があり、その曲に支えてもらってきた思い出が確かにある。
 逮捕のニュースがあった当時、同じ曲を好きだった人たちが、曲に罪はないと主張していたのを覚えている。
 確かにその人は作曲家であって、作詞は別の方だし、歌っているのも別の方。
 曲自体の魅力や価値が損なわれたわけではないと思いたかったが、公判でその人は犯行に及んだ動機を仕事のストレスだと語り、余罪があったことも判明した。
 その人が曲を作るたびに性犯罪を行なっていたのなら、曲こそが罪の証ではないかと、その時の私はそう思い、あんなに大好きだったその曲が聴けなくなってしまった。

 成功したオタクの概要を知って、私はそのことを思い出した。
 どう向き合えばいいのか分からず、その曲が提供されたコンテンツや、そのコンテンツを好きな人たちのコミュニティからそっと距離を置いた、あの時の気持ち。

 映画には監督の同担だけではなく、色んな芸能人の、逮捕された推しを持つファンの方が出て来る。
 顔を隠している方もいたが、ほとんどは顔出しで、推しが逮捕されたことへの心境を語っていた。
 幸せだった「成功したオタク」から、犯罪者のファンという「失敗したオタク」になった彼女たち。
 皆かつては熱心に推し活を楽しみ、推しに心酔していたと語る。
 そしてかつての推しを恥じ、憤り、犯罪を批判し、悲しみを吐露する姿は気の毒であったが、どこか眩しかった。
 これだけ自分のことを愛してくれて、真剣に考えてくれるファンに囲まれていても、逮捕されるようなことをしたいものなのだろうか。

 出演された方の一人に、友人の結婚式で大好きな歌手の曲を歌うのを楽しみにしていたという方がいた。
 しかし結婚式前にその歌手は性犯罪で逮捕され、別の曲を歌うことになったそうだ。
 その曲もいい曲だが、格別な思い入れはない。あの曲を式で歌えていたら、もっと素敵だったのにと話す彼女に、私もライブで披露されなくなった大切なあの曲のことを思った。
 名曲は世の中に沢山ある。けれど自分の思い入れがある曲は、その一曲なのだ。
 悪いのはもちろん、犯罪を行なった人だ。
 それなのに好きだった自分が、大好きだった日々さえもが、悪いことのように思えてしまう。何かを好きだった毎日は、あんなに楽しかったのに。

 インタビューの一部で、推し活とは依存だから、それだけに全てを捧げないほうがいい、という言葉がある人から出て来る。
 確かにそうだと私も思う。何かに傾倒し心の支えとして必要とするのは、本当は別の要因の、辛い何かがあるからだ。
 人によってそれは受験だったり就活だったり、家庭環境だったりするけれど、推し活をしている間、大好きなことに熱中している間は、何かとても綺麗なものに包まれているような、美しい夢の中にいる気持ちになれる気がする。

 タコピーの原罪の作者であるタイザン5先生の読み切り作品で、「キスしたい男」という作品がある。
 ある理由でアンジェリーナジョリーに恋をして、彼女に会うためにアメリカに行くまでのお金を稼ぐことに没頭する男の子、レオくんの話だ。

 私は「推し活」の根本にあるものとは、これじゃないかなと考えていた。レオくんほどの経験ではないにしろ、みんな何かしら今までに辛いことがあって、自分の心を救うために、素敵な推しを、自分を傷つけない何かを探し求めているのではないだろうかと。
 とはいえこれはあくまで私の考えであって、推しに求めるものなんて一人一人違うだろう。
 結局のところ誰もが、自分の経験の上でしか物事を測れない。
 推し活の程度とも、推しの犯罪とも、綺麗なままにしたかった大切な思い入れとも、自分自身で考えて、心の決着を着けなくてはいけないのだ。

 監督のお母さんもインタビューに応えている。
 監督がまだ子どもだった頃、一人で留守番をすることになって、外の音が怖いからヘッドホンで推しの歌を聴いて、そのまま眠っていたのを見つけたそうだ。
 監督のお母さんは、怖がりなこの子に推しがいて良かったと話していた。好きという気持ちが、恐怖さえ消してくれるから。
 監督のお母さんもまた、かつての推しが逮捕されている。
 だがその人は罪を償う前に自死されており、お母さんはそのことを一番怒っていた。生きて償うべきだからだと。

 監督はどうしてこの映画を撮ったのだろうと、観ながらずっと考えていた。
 自分の、そして同じ境遇のファンの気持ちの整理をつけるため。
 推しが性犯罪を犯してもなお、推し続ける残ったファンへの問題提起。
 それともこの映画の存在を知るであろう元推しと、逮捕者が出続ける芸能界へのメッセージだろうか。

 最後に監督は成功したオタクとは、推し活が楽しければ、全員成功したオタク、ソンドクなのだと締め括る。
 インタビューに答えた女性たちは喪失感を抱えながらも、ちゃんと現実を生きているように思えた。
 愛した推しが犯罪者となったとしても、自分の頭で善悪を判断し、離れることが出来た彼女たちは、失敗したオタクなどではないと、私はそう感じた。
 映画の中の彼女たちは、自分の足で歩き始めた、ちゃんとした大人だったから。

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