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友情とか友人とか、もうちょっと考えてみようかな

 本当にどうということはないんです。
 何年も前のことを思い出しては、今目の前で事が起こったかのように恥ずかしくなったり、良い思い出だったことを再認識したり。21年生きてますからね、積み重なってきたものがそれなりにあるのかもしれません。焦りもあります。自分には何があるのか、何を残してきたのか、何ができて、何ができないのか、これからどうすべきなのか。ひたすら前には突き進んでいるんだけれど、真っ暗なトンネルを歩くのと同じように、懐中電灯で照らされる範囲しか見えていないのです。そのくせそのトンネルは枝分かれしていて、選択を誤ったことに、すぐには気づけない。慎重にゆっくり歩きたいけれど、どうやら他の人はズンズン前に進んでいて、同じ時速で歩きたいから小走りになってしまう。他の人も自分と同じような真っ暗な中歩いているのに、あの人のトンネルは電気が通っていて明るいみたいだ、と勘違いしてしまいこともありますね。隣の芝は青く見える。
 だから、自分のために、手記を残します。

ありがとう、届いているだろうか

 友達が少ない。
 友達がいない。
 他のみんなは休みの日に、何人かで映画見に行ったりご飯食べたり買い物したりしているのに、自分は1人でカラオケに行ったりしている。強がりとかじゃなく、本当に楽しんでいる。
 でも、あぁ1人だなぁ、が、劣っているなぁ、に感じてしまうことがある。
 他のみんなは、高校とか中学とかの同級生や、幼馴染に会いに行くことがあるらしい。そもそも幼馴染と言える存在がいないし、同級生から誘われたこともない。成人の飲み会みたいなのには、行っても仕方ないから行かなかった。ずっと1人だった。色鉛筆を廊下にぶちまけても1人。勿論、咳をしても1人。
 別に、みーんなのことが嫌いなわけじゃない。仲良くしたい気持ちはある。でもなんか、「あの子は…ねぇ?」の“あの子”になってしまう。いじめられるとかじゃないけど、クラスや学年でのカーストにはノミネートさえされない。
 でも、ずっと、腐らずやってきた、ツイッター。依存と言われても否定はできないが、ツイッターのアプリを開いて見える世界というのもまた、自分が息をしている場所だ。同級生がツイッターをやっていると聞けば聞き出してフォローし、数十人はアカウントを知っていた。それでも、未だにツイッターを同じアカウントで続けているのは10人にも満たない。5人か4人くらいかな。たわいもない、愚痴やその日あったことを、空中にポンと投げるような、そんな感じでつぶやいている、ように見えている。共感したり、羨ましいなと思うことに関しては結構いいねをしている。まだあなたを憶えていますよーとか、気にしてますよーとか、大丈夫ー?とかいう気持ちを込めて、あのハートのアイコンを押している。
 誕生日。自分でアピールするのもなんだが、誕生日だというツイートをした。何人かのフォロワーさんからリプライをもらい、あざますあざますと嬉しくなっていた。中学のときの先輩からもメッセージが届き、めちゃくちゃ懐かしい気持ちになりながらお礼を言った。色々聞きたいことはあったが、切り出せずじまいだ。
 リプライなどではなく、いわゆる「匂わせ」(?)で、お祝いをしてくれたのは元同級生だった。距離感がだいぶあるが、友人。

この、「友人」という定義

 「友達がさー、こんなこと言ってて」などと言えなくなってしまったのは小学校高学年の時である。ある経験から、何が友達で何がそうじゃないのか、全くわからなくなってしまった。基本的には、「あなたが友人と思っていればそういう関係性ということで差し支えませんよ」というものなのかもしれないが、自分は相手から「〇〇さんは、友達…じゃないよね」とキッパリ言われ、そういうものなのか、と同級生などを「友人」と言えなくなってしまった。相手がそう思っていないなら、自分は一歩引こう、と感じるようになった。そうすると、相手は何を以て、自分を友人としてくれるのだろうかという思考に入る。その結論の一つが、「ある程度の頻度を保ちながら、プライベートの時間を過ごす」だと考えた。これはあくまでもリア友の定義か?
 でも、緩やかなネットストーカーみたいな状態でも、たまにリプライで何ラリーか会話をしていたり、祝いのツイートをしていれば、友人と思っていてもいいよなーと思えたのだ。
 持つべきものは友、という言葉に苦手意識があるが、友人の存在…というより、「あ、この人は友人と認識していて構わないんだな」と思える瞬間は“持つべき”だと思う。それに、自分もそうでありたいとか、そう思ってほしいと誰かを想うことも、“持つべき”感情なのかもしれない。


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