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支援学級も支援学校もクビになりかけた

次男の現在:支援学校高等部1年進路面談、覚書
を書く前に次男の事を振り返ってみたいと思います。

次男の成育歴
2歳半まで発語なく、クレーンで意思を伝えていた。3歳で広汎性発達障害の診断。保育園では集団に入れない。パニック、他害、自傷。動物への強い興味関心。4歳二語文。5歳で短い文章。コミュニケーションが上手な友達や先生とはかかわりを持てるようになっていた。

小学校入学時は言葉で意思の疎通ができるようになっていた。この時、境界知能。特別支援学級に入学したが、他の子の言動に刺激され、問題行動は増えて行った。今まで保育園では健常な子ばかりだったので、奇声をあげたりドアを一日中バタバタされたりが耐えられなかったのだ。けれど、若い担任は「次男君は何もしてない子に手をあげました!」と他の保護者が迎えに来ている場所で大声で私に報告した。私たち親子はみんなに距離を置かれた。その後もトラブルは続き、小3で転校を勧められる。そのことが本人にはとてもショックで、二次障害が起きる。この時は最悪だった。私が心の病を発症したのもこの時期。

転校を勧められたとき副校長に「この子は将来犯罪者になる」と言われ、「そうさせないのが教育でしょう」と言い返した。小3の子に。
この時はっきりとそういったのに、後で副校長は誤魔化し、最後にはしらを切ったので、闇の深さにボイスレコーダーを携帯することにした。私ももう、人を信じられなくなっていた。

結局、その件も含め今までの対応の不備もあり教育員会が間に入り、当時の主治医も激怒してくれ、本人の希望を尊重して卒業まで同じ学校に通うことになった。ただ、教育委員会、学校長との話し合いで、担任が他の子への対応をしながら次男を見ることは不可能であり、他の子への他害がある以上、別室登校にしてほしい、また本人への刺激を少なくすることで本人の精神が安定するとのことで、みんなのいる支援学級から一番離れた資料室へ登校になる。
午前中アルバイトの介添員付き、午後は私が付きそう。バイトが見つからない日もあり、「学校では探せないのでお母さんが探すか、休むかして」と言われたり…。担任は他の子の対応で手いっぱい、滅多に関われない状況(年に3回くらいしか様子を見に来ない担任もいたし、主担任でもないのにどうにかしようと奮闘してくれた先生もいる。)で小3から卒業まですごす。昆虫への執着、絵や創作に熱中し、好きなことを自分なりに勉強して毎日ひとり(+見守りの大学生や母)で過ごした。歓迎されていない。行事は休むことを提案される。それでも次男は学校に行きたがった。私は正直、不登校になってくれないかなと思っていた。行事も休むと言ってほしかったけれど、双子の長男が行くのにそれも酷で、次男の希望をできるだけ叶えるように、そして学校のみなさんに迷惑をかけないように、別行動で参加した。

中学は学力的には支援学級判定だったが、今までの経緯から支援学校に行く。
特別支援学校は支援学級よりも、障害が重い子が多いので、泣いたりわめいたりが日常茶飯事だ。次男にはそれが恐ろしい。
人が怖い、特に障害のある子の言動が読めないので、怖がり、耳をふさいで避けて通る。教室に入れない。そういう状況から中学でも入学一ヶ月で校長室に呼び出され、病院に入院&院内学校に通うよう、転校を提案される。

二度にわたる転校の提案。特別支援学級、支援学校から見放される私たち。

苦しんでいる本人を周りの大人が支えてくれない状況、「自分たちでは支えられないから他の学校に行ってくれ」というのは逃げだと思った。次男は学校に行きたくないわけではない。行きたいのだ。安心して行きたい。それを叶えるには大人の手助けがいるのに、どうしようか考える前に匙を投げられてしまう。次男の問題か?大人の、仕組みの、学校の問題ではないのか?

そのことが次男に最も大きな傷を与え、自信を失い、人を信用できないようになったと思った。

私も逃げないから学校も逃げないでくれ、と主治医も巻き込んで、今の場所でとどまることで最善をめざすことを宣言した。
学校も腹をくくってくれた。

腹をくくる。まず、大人が腹をくくってみせる。
私が先に。
今まで以上に、できることは何でもすると心に誓った。
先生も変わった。真正面から向き合ってくれるようになった。

そこから次男は変わっていった。他害はまったくなくなり、パニックも減っていった。

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