モバイルバッテリーについての考察

モバイルバッテリーってなんだろう。

私は今モバイルバッテリーが欲しい。東京に行くからだ。街に出ている時にスマホの電池が切れたら一巻の終わりだ。東京砂漠と言うくらいだから、田舎から来た気の毒な女子高生が突然「電池がァ!!!」と叫んで道の真ん中でぶっ倒れたとしても誰も助けてくれないだろう。

どうせ東京の人は皆哀れな女子高生に目もくれず血眼でポケモンを捕まえているに違いない。ポッポとか。本当にろくでもない奴らだ。最悪彼らはこちらにカメラを向けて写真を撮り、ツイッターにアップするのだ。「ヤバい人いたww」という品性のかけらもない文字列と共に。東京の人はそれを何食わぬ顔してやる。奴らは殺人現場に出くわしても取り敢えず写真を撮りツイッターにアップする。飛び降り自殺でも同様だ。そこまで行かなくても、大抵の東京人は「人身事故」が起きる度心の中で舌打ちを打っているのだ。なんて冷たい人達なんだろう。もちろんこれらの行為はSNS上で炎上するが、良心で注意しているのは皆田舎者なのだろう。なんといったって都会の人は皆冷たいのだから。


話は逸れたが、上記のような最悪の事態を予期して、私はモバイルバッテリーの購入を検討している。昨年聞きに行った防災講演会の先生もモバイルバッテリーを持っておけと仰っていた。東京では、皆当然のようにモバイルバッテリーを持っているらしい。東京で泊まるホテルの前にはケーズデンキがあるという。いい機会だから買いたい。


しかし、私はモバイルバッテリーがなんなのかわからない。どこでも充電できるということしか知らない。魔法か?

どういう形状をしているんだろう。取り敢えずどこかに接続するのだろうか。電子機器の基本は何かを接続することだ。USBを挿入して接続する、充電器をコンセントに接続する、USBの裏表を間違えていたのでひっくり返す......これが電子機器の使い方のいろはだ。

私のスマホにも穴がいくつかある。穴は下部に集中しており、左からヘッドホン端子、スピーカー、充電器のところ、スピーカーという順番だ。順当に考えると充電器のところにモバイルバッテリーも接続すると考えられるが、ここで決断するのは性急だ。

「どこでも充電できる」という革新的なアイデアは、こんな平凡な思考からは生まれない。よく考えてみて欲しい。

スマートフォンの電力は、普段コンセントから供給される。そのコンセントがどこに繋がっているかと言うと発電所だ。発電所レベルの電気量でないと、高度な電子機器であるスマートフォンの電力は供給できないのだ。スマートフォンが乾電池で動かない理由がそこにある。つまり、乾電池以上の大きさの物体でないとスマートフォンの電力消費に耐えられないということではないだろうか。

必然的に、スマホとの接続部である端子部分も巨大化するはずだ。よって、1つの穴ではスマホ側の大きさが足りなくなると予想できる。ヘッドホン端子、スピーカーをもカバーする複合的でマルティプリーな最新鋭の端子が必要になるのだ。


次は、形状について考えてみよう。モバイルバッテリーとスマホは、いずれも高度な科学技術の結晶だ。私には一体それらがどんな動力で動いているのか全くわからない。「高度な科学技術の発達は魔法と同じだ」と言われている。中世ヨーロッパでは、魔術を使ったと疑われるものが裁かれ、制裁される「魔女狩り」が行われた。つまり、魔法や魔術とは人類の脅威なのだ。


人類にとって脅威であり、かつ、スマートフォンについている全ての穴に接続できる形状のもの......


私は1つの結論を導いた。それは、「ヒル」だ。ヒルの風貌や吸血する生態はまさに人類の脅威であり、死者も出ている。また、吸盤を備えたその形状は、スマートフォンの全ての穴と接続するのにピッタリだろう。
それだけではない。ヒルには古来から医療用としての用途もある。「人類の脅威であり、同時に味方でもある」という点において、科学と通じるものがある。


もちろん、自身に電気を蓄えると太り、スマートフォンに接続していると徐々に細くなっていくというギミックも施されているだろう。女子高生にちやほやされること間違いなしだ。


東京の町はきっと、そんなヒル達で溢れているのだろう。結局日本人は無意識のうちに田を求めているのだ。弥生時代に稲作が始まり、現代に至るまで日本人の主食として米が生産され続けている。それを育てる田園こそが、日本人の原風景、本能的に戻ってきてしまう場所なのだ。それは都会人だろうが田舎者だろうが関係ない。田園、すなわちヒルへの回帰。冒頭で都会人を馬鹿にした自分が恥ずかしい。同じ原風景を持つもの同士、私達は心の奥底で繋がっている。きっと、スマートフォンの電池が切れて咽び泣く惨めな女子高生を見捨てたりしない。


モバイルバッテリーはもう、必要ない。

たすけて〜