憑 狂 ~ツキクルウ~ Ⅷ
目覚めると、窓から朝の光が差し込んでいた。
雲ひとつない青空。空気は澄んで爽やかだ。久しぶりに目覚めたような、すっきりした気持ちで起き上がる。
ベッド脇の目覚まし時計は、八時十分を指していた。一限に余裕で間に合う時間。美大に合格してから一年間だけは、この時間に起きて通学していた。
シャワーを浴びてひげを剃る。ひげは濃い方ではないのに、かみそりに削り取られるひげたちは、イヤに黒々としている。
シャワーで洗い流し、かみそりの水滴を切る。
冷蔵庫からペットボトルの水を取り出し飲み干す。まだ喉が渇いている気がしたが、備蓄はない。消費期限を見ると、九月十九日になっていた。
三日前か。……まあ、冷蔵庫に入っていたんだ。腹は壊さないだろう。
そのへんに散らかしたままのシャツとジーンズにパーカーをはおって、大学へ向かう。
携帯は……。面倒だ。置いていこう。
ポケットに手を突っ込んでブラブラ歩く。なんだか肌寒い。放射冷却と言うやつだろうか。
もう秋なんだなあ、とのんびり思う。
朝っぱらから、気の早い石焼き芋屋の声がする。何か食ってくればよかった。腹が減ってきた。
指定された十時に牧田の教官室に行けばいいのだからと、食堂で朝食を食べていくことに決めた。
学食は九時から開いている。注文したワカメうどんをすすりながら、体が温かくなっていくのを感じる。腹が減りすぎて、低体温になっていたらしい。
なんだか久しぶりに血管に血が通ったような気がする。
「お? めずらしい! 生きてたか元宮!」
背中をバン! と叩かれ、むせた。同級の阿藤が背後に立っていた。
「……勘弁しろ。鼻からうどん出る」
「なんだ、マトモなフリしやがって! おまえ狂気の画家に乗り移られて、シッソーしてたんだって?」
「はあ?」
「狂気の画家の絶筆を見て、とち狂ったんだろ? なあ、お前の描いた絵、くれよ。な。絶筆になるかもしれんだろ。狂気の画家の狂気の弟子の絶筆! 価値が出そうじゃん!」
「うざ。ってか、狂ってないから。死なないし画伯も死んでないし」
「え! まじで? 狂ってないの? なんだ、つまらん。優等生の元宮が狂って、単位落としまくってるって言うから楽しみにしてたのにさ」
「後期の単位まで落とすもんかよ。ギリギリ、ぎりで単位とるのが醍醐味なんだって」
大基の言葉に、阿藤は黙り込む。絶対安心と思っていた魚屋で買ったマグロにアタり、腹を下したような顔をしていた。
「……おまえ、マジで言ってんの? 掲示板、見てないの?」
「なんだよ、掲示板なんて朝一でなんか見ないだろ。なになに、そんなマズイ掲示があった?」
「……まあ。見てみろよ。うどん食い終わったらさ」
阿藤は大基と顔を合わせないように目を宙にさまよわせ、去って行ってしまった。
大基は首をひねり、うどんをツユまで飲み干した。
ぶらぶら歩いて、学生向けの庶務掲示板を見に行く。
メールでも配信してくれるのだが、他人が単位を取れるか取れないかなどという情報に興味のない大基は、受け取っていなかった。
大体ほぼ毎日学校に来ているのだ。ちょっとここまで足を運べばすむ話だ。
掲示板には各種のお知らせが張り出されている。
学費の納入期限のお知らせや、前期試験の不合格者に対する追試験の実施要綱、ゼミの人員異動や教授の異動のお知らせなどなど。
大基は自分に関係ありそうなものだけ見ていくことにした。
思いがけず、自分の名前を書類の中に発見した。三枚の書類に自分の名前がある。
「日本画専攻、3回生、元宮大基。テキスタイル、不履行」
「日本画専攻、3回生、元宮大基。デッサンⅥ、不履行」
「日本画専攻、3回生、元宮大基。油画Ⅳ、不履行」
これは、なんだ?
大基は、自分の目をこすり、目垢がついていないことを確認して、二度、三度、書類を読み返した。
四度、五度、見直しても書類の文字は変わらなかった。
読み間違いではない。
元宮大基。
オレのことだ。
日本画専攻、3回生。
オレのことだ。オレの事だ、間違いない。
不履行。つまり、落とした。単位を。
意味はわかる。だが、意味がわからない。
なぜ、落とした? オレが何かしたか?
まだ後期は始まったばかりだ。前期試験でいくら単位を落としても、後期の単位には関係しない。それが、単位制ではないのか?
特に、牧田が担当する油画Ⅳ。
油画ⅠからⅧまで共通して、講義の三分の二ほど出席し、決められた課題を提出しさえすれば単位をくれるという講義だ。
前期の油画Ⅲの単位を落としはしたが、後期はまだ二回、講義をすっぽかしただけだ。それだけで単位をもらえないなんて、納得がいかない。
大基は指定された時間より早く、足音高く牧田の部屋に踏み込んだ。
「なんだ元宮じゃないか。いまごろ、何しに来たんだ?」
書類をめくりながらチラリと視線だけをよこし、牧田はうっとうしそうに聞いた。
「十時に先生の部屋に来るように伝言されました」
牧田はくるっとこちらを向くと、腕組みして首をひねった。
「伝言……? 伝言、伝言……。んんんん? まさか、加藤田の伝言か?」
かとうだ? しばし考えた。ああ、さゆみのことか。
「そうですけど」
牧田は眉間に縦皺を寄せて、腕を組み、言った。
「おまえ……。それは二ヶ月くらい前の話だぞ。お前が音信不通だから、とっくの昔に単位は消失したはずだがな」
急いで部屋に取って返す。携帯を取り上げると、電源が切れていた。
コードをつないで充電し、電源を入れてメールをチェックする。
ほとんどがさゆみからだったが、教務課からの連絡メールも入っていた。
単位を落としそうになっていたら、連絡をくれるものらしい。
理由のある長期欠席なら執行猶予がある、と書いてある。
執行猶予とは!
大基は犯罪者になった気分になった。メールの日付は九月二十四日。
いったい、今日は何月何日だ?
テレビをつける。ワイドショーで今日のニュースとやらの話をしている。
日付は十一月十八日。
……うそだ。
大基はリモコンを忙しなく動かし、他の番組をチェックするが、これと言って日付のわかる番組はなかった。
そうだ携帯、携帯に日付が出るはず。
目を落とした携帯の待ち受け画像は「ツキクルウ」だった。
あれ? いつ撮ったんだろう?
いつ……。
そうだ、金庫に入っているんだ……。
なんで忘れていたんだろう。
大事なものは金庫にしまうものじゃないか。
失くしてなんかいなかったんだ……。
ギシっ。
廊下で、人の足音がする。
振り返る。そこに、女が立っていた。
……誰だ?
しばらく見つめ合うと、女は真っ青になって、部屋から駆け出して行った。
なんだ? 部屋を間違えたのか? いやそれどころじゃない、それどころ……。なんだっけ、何をしていたんだっけ。なにが、それどころ……?
ぼうっと、何も映っていないテレビをながめる。テレビは何も映さない。映らない画面に無数のデータが飛び交っている。ざーざーと聞こえない音がする。
そうだ、いかなくちゃ。
かのじょがまっている。
立ち上がると、そのまま出て行った。
「おかえりなさい、どこに行っていたの?」
百合子がにこにこと聞く。
たいしたことないんだ。
なんでもないんだ。
「そう? じゃあ、またモデルをお願いできるかしら?」
うん。
そのためにもどってきたんだ。
百合子に背を向けて座る。背中が生暖かい安堵感に包まれる。背後にぐうっと引っぱられるような感じがする。
包まれている。視線に。すべてあずけてカラッポになる。
ただ背中だけを感じる。
百合子の視線に包まれた背中だけ感じる。
ここに存在している。
この背中だけがすべてだ。
ここにいれば大丈夫。すべてここにあるから。身をまかせて座っていればいい。
包み込まれて暖かいはずなのに。
なぜだろう? 体がふるえる。
なぜだろう? 汗が流れる。
ガタガタガタと汗を流しながら震え続けていた。いつもなら震えだすとすぐに描くのを中断してくれる百合子が、今日はどれだけ震えても手を止めてはくれなかった。
震えはますますひどくなる。もう、暖かいのか寒いのか暑いのかもわからない。ただ、座っていた。ただ、背中を感じていた。
ふと視界がぼやけたように感じた。
あるいは白くなったように。
世界が消えて何も見えない。
見えているはずなのに何も感じない。
ただ視線だけを感じる。
背中に。
ふるえが とまった
「出来たわ。さあ見てちょうだい」
呼ばれて、絵を眺める。男の背中が描いてある。いくつくらいだろうか。いやに細い肩だ。誰だろう?
キャンバスの裏をのぞきこむと「大基 二十歳」と描いてある。
だいき……。
なんだろうききおぼえがあるような……。
「どうしたの、大ちゃん?」
なんでもないんだ。
なんだかしってるようなきがしただけ。
このせなか。
「ヘンな大ちゃん。疲れたんでしょう? 少し休む?」
そうだね。
なんだかつかれたみたいだよ……。
和室に入り、横になる。生暖かい空気に全身を浸す。ゆるりと包み込まれるように感じる。
「ゆっくり、おやすみなさい」
そう言うと、百合子は毛布をかけた。
「おーい、加藤田」
呼ばれて、さゆみは振り返る。小脇に石膏像を抱えてスリッパをぺったぺったと鳴らしながら牧田が近づいてきた。
「ちょっと手を貸せ。こいつが重くてなあ」
「えー。男子に頼んでくださいよ」
ぶうっとふくれたが、さゆみは素直に石膏像を半分持ってやった。
「すまんな。俺の部屋まで頼む」
「えー。遠いですよ。台車を使ってくださいよ」
「事務室まで借りに行くのが面倒なんだよ。いいじゃないか。飴ちゃんやるから」
「もう……。いりませんよ。飴ちゃんなんて」
さゆみはぶつくさ言いながらも、結局、牧田の教官室まで律儀にお供した。
「ほい、ごくろうさん」
約束どおり牧田が飴をくれた。黒糖生姜飴だ。さゆみは袋をやぶり飴を頬張る。
「そういえば、お前の旦那。大丈夫なのか、あれは?」
「旦那じゃありません」
さゆみは舌で飴をほっぺたに押し付けながら答える。
「そうか。じゃあ、彼氏か」
「彼氏じゃありません」
「なんだ、お前たち別れたのか。愛がないなあ」
椅子に腰掛け、だらりと全身の力をぬくと牧田の姿は熊に似ている。愛嬌があって、何を言われても怒る気になれない。
「愛がないのは、あっちだけです。私は関係ありません」
「なんだ。じゃ、今でも惚れてるのか」
「そんなわけじゃ……ないです」
さゆみは俯く。牧田は困ってしまって、頭をボリボリかきながら立ち上がり、意味もなくうろうろする。その姿はまさに動物園の熊だ。
「あー、うん。ま、いいんだけどな。あれ、ちょっとヤバイぞ」
「ヤバイって?」
顔を上げたさゆみをチラとうかがい、目をそらし、牧田は続ける。
「魂が抜けてる」
「たましい?」
「なんていうんだっけ? あのぉ……、ほら。ヤバイクスリでヘンになったやつのこと」
「キマってる?」
「え? なんだそれ?」
「違いますか。じゃあ、ラリッてる?」
「そう! それ! そんな感じだったな。顔色も青白いというか、いや、もっとこう紙みたいに白いというか……」
ごにょごにょ言う牧田を遮り、さゆみが叫ぶ。
「大基が、学校に来てたんですか?」
「そう。お前の旦那」
「旦那じゃありません! いつですか?」
「今日。午前中」
「今日!?」
「おう。お前からの伝言を聞いて来たってよ」
「私からのって……。私、最後に電話したの、九月のおわりですよ?」
牧田は首を回し、カレンダーを確認する。今日は十一月十八日。間違いない。
「二ヶ月前だな」
「二ヶ月……って……。そんなにたってから、ノコノコ何しに来たんですか?」
「だから、お前の伝言聞いたから来たって。単位落としたぞって言ったら、ショック受けてたがな」
さゆみは呆然と聞いている。
「意味わかんない……」
「なあ? だろ? だから、大丈夫かって聞いてるんだよ」
「大基を問い詰めます!」
牧田の顔をキッと見据えて宣言すると、さゆみはそのまま走り去った。
「おうおう。元気がいいねえ。若い若い」
牧田は開いたままのドアにヒラヒラと手を振った。
大基のアパートに大またで乗り込む。
部屋のドアに鍵を差し込み回そうとしたが、鍵は開いていた。そっと、ドアノブを引っぱる。玄関には確かに大基のスニーカーが脱ぎ散らかしてある。
音がしないように玄関にそっと入り、そっとドアを閉める。
部屋の奥、大基のベッドルーム兼、居間でテレビがついているようだ。
人が心配して来てやってるのに、のんきにテレビなんか見て……。ふ
つふつと怒りがこみ上げた。足音を忍ばせて近寄る。
いきなり大声で怒鳴りつけてやるんだから!
トイレの前まで来ると、足元で床がギシっと大きな音で鳴った。テレビを見ていた背中が振り返る。
さゆみは声にならない悲鳴をあげた。
振り向いた背中には、顔がなかった。
胸も腹も肩もなかった。
ただ、背中だけ。
それなのに、振り返ったのだとわかる。
振り向いた背中は、じっと、さゆみを見ている。
「誰だ、あんた?」
口のない背中からそう問われた気がして、さゆみは逃げ出した。
確かに、あの背中は大基だった。大基の背中だった。あたしがいつも見ていた背中。なのに、振り返ったら、背中は、さゆみを知らなかった!
不可解な出来事より、大基の部屋で大基から誰何されたことのほうにショックを受けた。
大基ならきっと、ヤク中になっても、亡霊になっても、自分のことをわかってくれると思っていたのに。
アパートを駆け出し、闇雲に走る。息がきれても走り続ける。
嘘だ。
あれは、大基じゃない。
大基の、はずがない。
そうだ、大基は、まだ、あの女の部屋に、いるんだ。きっと、そうだ。
そうに決まってる!
さゆみはきびすを返すと、大学に向かって走った。
「遠藤! アンタ、あの女の、マンション、知ってるって、言ったよね!」
「うん、言ったよ」
息せききって教室に飛び込み開口一番叫んださゆみの質問に、椎奈は顔色一つ変えずに答えた。周りにいた級友は、あっけにとられている。
「あの女って誰だよ」
と言う声が聞こえる中、さゆみは息を整えて言う
「案内して」
「無理」
遠藤は一蹴する。
「お願い! 急いでるの!」
地団太を踏む勢いで、さゆみはガナったが、遠藤は冷ややかだ。
「もう、講義始まるし。それに、あの女の周りで男が消えるの、初めてじゃないし」
「え?」
言われたことが理解できず、さゆみはポカンとする。
「うち、あの女の実家とすぐ近所なの。近所では有名、男の子が消えるの」
周りの級友が目を輝かせて、先を促がす。
「最初は私が小学生の時。消えたのは、いっこ上の先輩。あの女からすると同学年だけど。男子が消えたの、ある日突然。
その少し前からあの女と仲良くしてて、あの女の家にしょっちゅう遊びに行ってたんだって。絵のモデルに行ってるって言ってたんだってさ。
で、ある日帰ってこなかった。警察が聞き込みに来たよ、うちにも。
けど近所だけど、知らない子だし。近所の沼とか工場跡の廃屋とか探したらしいけど、結局、何も見つからないまま。
神隠しって言われてた。
次が、私が小学校六年の時。私と同じクラスの男子が消えた。
やっぱり、あの女のモデルになってて、帰ってこなくて、それっきり。
次は、中学校三年の……」
「……うそでしょ?」
さゆみの囁き声に、滔々と語っていた遠藤は、口を閉ざした。
「うそでしょ? いくらなんでも、あははは。うそだあ。ありえないよ。
だって、怪しすぎるじゃない! いくらなんでも、その女が犯人だって! そうでなきゃ、女の家族だよ! だって! だって絶対、怪しいもん!」
遠藤は、さゆみを見るばかりで何も言わない。
「ねえ、遠藤の作り話でしょ? ねえ、なんとかいってよ。ねえ……」
遠藤は黙って、腕をゆすり懇願するさゆみを見ていたが、再び口を開いた。
「国分大吾くんは、五年生の女子児童の絵のモデルになっていた。警察は、この女子児童を怪しんで取調べを行った。しかし、女子児童の供述は『国分君は絵を描き終わってすぐに帰った』と一貫していた。大吾くんが女子児童宅を出た時間は午後六時半ごろ。この時、新聞勧誘員が玄関先に立つ大吾くんの後ろ姿を目撃している。警察は女子児童宅を出てからの大吾くんの足取りを追っている」
「な、なに言ってんの、遠藤? どうしたの?」
遠藤は、ため息混じりに答える。
「当時、ゴシップ雑誌に載ったのよ。テレビの取材も来た。けど、誰も何も見てないし、何も聞いてない。あの女も、家族も、警察に取り調べられたけど、怪しいところはなかったんだってさ。それで、テレビに映ったあの女を見て、有名な画家がスカウトに来た」
「橋田坂下……」
「なんだ、知ってるんじゃない。とにかく、調べても無駄なの。プロが捜査して何もないって言ってるんだから、無駄無駄。あきらめなって」
遠藤は、さゆみに背中を向けた。周囲の級友の興味本位の質問を五月蝿そうに撥ね付けている。
「……わかった。住所だけ教えて。一人で行く」
一瞬、不安げな表情を見せたが、遠藤はノートの切れ端に住所を書いて、渡してくれた。
「ありがと」
「無駄だと思うけど」
遠藤はさゆみの目を見ない。さゆみはもう何も言わず、教室から駆け出した。
執筆に必要な設備費にさせていただきたいです。