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背中 1 憑 狂 ~ツキクルウ~
硝子扉が開く音に、私は顔を上げた。
「いらっしゃいませ」
画廊に入って来たのはショートボブで、ベージュのパンツスーツ姿の女性だった。私の声が耳に入らなかったかのように、引き寄せられるように、奥の壁に掛けてある絵に近づいていく。
他のものは目に映っていないだろう。まっすぐに絵に向けられた瞳はどこか遠くをみているようだった。
女性はそこから右にさかのぼって、一枚ずつ丹念に絵を見つめていく。それらはどれも、男性の背中を描いた絵だ。最大サイズ、50号のキャンバスの背中がもっとも年齢が高く二十歳のもの。そこから右へ行くにしたがって若返っていく。
この画廊に常設されている画家の絵だ。美しい容姿をしている、その女性画家のファンは多い。だが、目の前のスーツ姿の女性は、ファンというにはあまりに虚ろな目をしている。
背中だけが描かれた絵を端から順に見て行って、女性はまた最初に見ていた二十歳の背中の絵の前に戻った。
よほど気に行ったのだろう。この画廊に勤めて半年、こんなに熱心に絵を見てくれる人に初めて会った。
嬉しくて、受付から立って行って話しかけた。
「こちらは高坂のライフワークで、彼女が弟の成長を描き続けた連作の、最新の作品です」
画廊の主要画家である高坂百合子の来歴は頭に染み込むほど、何度も繰り返し話し続けている。来る客、来る客、高坂のプライベートを聞きたがったが、そんなこと、単なる受付役でしかない私が知るはずもない。
愛想笑いを浮かべて、決まり切ったライフワークの話をし続けるのが、私の仕事だ。
女性客は私の胸の名札『船木美和』にチラリと目をやってから口を開いた。
「ライフワークは、この作品で終わりなんですか?」
やはり、この女性客は、いつもの冷やかしとは違う。絵、そのものに興味があるのだ。嬉しくなって、もっともっと喋りたくなった。
「いえ、現在、新作を執筆中です。こちらの作品から後の、三年間の歳月を描き出すそうです」
「……そう。また……」
「え?」
女性がぽつりと何かを呟いた。それからまた順を追って背中の絵を見て行く。二十歳から十歳まで。若返る過程を見ている姿は、時間をさかのぼる魔法にかかった王子様を見つめているようだった。
もしかして、この人は、この背中のモデルの男性を知っているのではないだろうか?
そう思って、振り返った女性に尋ねようとしたとき。
「だいき……!」
女性はガラス扉から外を見つめて、叫び、一瞬の間を置いて駆け出して行った。まるで幽霊を見つけた人のようだった。そんな人を見たことはないけれど、きっと彼女が見たものは、幽霊か、そうでなければ悪魔か鬼か。とにかく人外のものだったのだろう。
彼女が駆け去った後の画廊に残った空気は冷え切って、暖房がよく効いた室内で、私は鳥肌をたてて身震いしたのだった。
私の仕事は午前九時に始まる。
画廊のドアを開けて冷え切った室内に入る。バックヤードにカバンとコートを置いて店の外の歩道の掃除をする。
大抵、枯葉やたばこの吸い殻を片づけるくらいだけれど、運が悪かったら昨夜、したたかに酔ったのであろう誰かの汚物を処理する。
店内に戻ってクロスで埃払い、観葉植物の手入れ、床掃除、絵画のチェック、受付テーブルのフライヤーの補充、週に一度のウインドウ拭き、そんなところが私の主な仕事だ。
絵画が好きで始めたこの仕事だけれど、絵に関することには、ほとんど携われない。
この画廊が、ほぼ一人の作家の作品だけを取り扱っているという理由が第一だけれど、その画家の絵がたった六枚、彼女が言うところのライフワークの弟の背中の絵だけだというのがもうひとつの理由だ。しかも、その絵は売り物ではない。
ここは画廊であって、美術館ではないのだと、何度、オーナーに進言しようと思ったことか。
だけど、美術系の専門学校を卒業しただけで社会人経験もない私を拾ってくれたオーナーに逆らう言葉など思いつかず、何も言えないまま、安穏と時間は過ぎていく。
いいや、あきらめるな、私。冬来たりなば春遠からじ。
きっと、いつか、もっと、他の作家さんの作品を掛けることが出来る日が来るはず!
きっと、いつか、もっと、素敵な絵を見ることが出来る日が来るはず!
いや、今の彼女の作品が悪いって言うつもりは、全然ないんだけどね。
執筆に必要な設備費にさせていただきたいです。