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金の籠 9


 一度外に出てしまってからは弾みがついたようで、依子はびくびくと身をすくめながらも散歩に出る事ができるようになった。
 雷三は恐れを知らず先へ先へと歩いていく。 雷三が庭の隅に座り込んでいるスイミーの方へ歩いていくのを見て、依子が叫んだ。


「雷三、やめて!」

 雷三はかまわずスイミーに近づき、その膝に触れた。スイミーはそっと手を伸ばすと雷三の頭を撫でる。
 依子はがくがくと震えながらその様子を見つめていた。

 そんなことを何度も繰り返すうちに依子もだんだんとスイミーを恐れなくなっていった。使用人はやはり姿を見せない。
 何日も時間をかけて、雷三のあとについてスイミーのそばへ歩いていき、頭を触らせることもできるようになった。スイミーは喜んで、二人を籠の外へ出すことが多くなった。

 雷三は防寒用の黒い布もまとわずに庭を駆けまわった。

「体を鍛えるんだ!」

 元気よく宣誓した雷三のあとを依子もついて走ってみたが、狭い籠の中の生活でずいぶん体力が落ちてしまっていた。 
 五十メートルも走れば息が上がった。雷三を見習って依子もできるだけ動きまわるようにした。

 庭の壁は三メートルほどの高さがあり、外を見ることはできなかった。
 籠から出てすぐの頃にははるかに広大に思えた庭も、慣れてしまえば近所の公園ほどにしか感じられない。もっと広い、もっとまっすぐな地面を見たかった。


ある日、庭で依子達が走りまわっていると、塀を開いて大人の異形が外から入ってきた。依子の足はぴたりと止まり目を見開いて異形を見上げた。

 大人の異形は使用人ではなかった。けれど依子を脅かす存在であるように思えた。異形は、錆びた鉄の扉が軋むような声でスイミーに何かを話した。どうやら叱られているらしくスイミーは肩をすくめて下を向いた。

 大人の異形が家に入ってしまうと、すぐにスイミーは金の籠を持って雷三と依子の元へ歩み寄ってきた。依子は怖れて逃げようとしたが、雷三が依子の肩を抱いて押しとどめた。スイミーは二人のそばに籠を置くと金の紐を掻き分けて少し離れた。
 雷三に促され依子は金の籠の中に戻った。脚に柔らかい床の感触を確かめ、心の底から湧いてくる安堵感に依子の目から涙がこぼれた。


 大人に叱られてからスイミーが庭に出る頻度が減った。そのかわり部屋から金の籠を持ちだして家の中を歩き回ることがあった。

 そこはどうやら異形たちのリビングルームのようだった。ゆったりとした柔らかそうな椅子や低いテーブル、装飾品らしきカラフルな皿のようなものが壁に貼りつけてある。その中に溶け込むように、丸い窓があった。スイミーはその窓の近くに籠を近づけた。

「外だ!」

 雷三が叫んで金の紐にすがりつき窓の外をもっと見ようと首を伸ばす。
 スイミーは籠を高く持ち上げ窓の高さに合わせてくれた。雷三は手を伸ばして窓に触れた。

 窓板はぶよぶよと伸び縮みする性質を持っているらしい。ガラスのように硬くはなかった。けれどどんなに押しても、雷三の手は外へ出ることはできない。雷三は唇を噛んだ。

「すぐそこにあるのに……」

 依子も手を伸ばしてぶよぶよ伸びる窓に触れる。それを見ていたスイミーが壁に手を触れた。
 と、思うと依子の手が窓から外へ飛び出した。依子はバランスを崩して金の紐に抱きつく。雷三が籠から手を出し窓の外へ向けて突き出す。ひやりとする空気が両手を撫でていく。
 もっと外へ出ようと金の紐をこじ開けようとしたが、紐はびくともしない。二人はしばらく黙って外を見つめていた。外の空気に触れて、けれど外界からの距離は、自由への道は、ますます遠くなったように感じた。
 スイミーは二人が籠の中に座り込んだのを見ると窓を閉めた。


 窓の外を見てから二人は黙りこむ事が増えた。それぞれにぼんやりと考え事をしていた。

「ねえ」

 雷三に話しかけられ、依子はぼうっとした表情を雷三に向ける。

「外へ出よう」

 雷三は真剣なまなざしで依子を見つめる。

「どうやって?」

「庭に出た時に塀の外へ出る扉を探そう。大人がやってきたところだよ」

「見つけてどうするの? どうせ私達には開けられないわ」

「スイミーに開けてもらう」

 依子は驚いて口を大きく開けた。

「まさか、スイミーが私たちを逃がしてくれるわけないじゃない」

「でもスイミーは窓を開けてくれた。それにスイミーだって外に出たいんだ。だから叱られても庭に出るんだ」

 雷三の言葉はにわかには信じられなかった。
 しかしスイミーが二人をリビングに連れていくたび窓を開けてくれることや、スイミー自身も窓の外をじっと見つめている事などが何度もあり、依子も外へ出られるかもしれないという期待を抱きはじめた。

 スイミーは大人の目を盗んで庭に出る。それはたまのことだったが、二人は逃げだす時のために必死に走り回った。そうして長い距離を走れるようになったころ、その日はやってきた。


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