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背中9   憑 狂 ~ツキクルウ~

 大基の部屋を引き継いで、さゆみは暮らしてきた。大基がいた時そのままの家具、そのままの食器、そのままの衣服。大基がいつ戻って来てもいいように、ずっと変えることなく、待ち続けていた。

 けれど、もう必要ない。大基は帰って来たけれど、さゆみとは違う世界に行ってしまった。この部屋を引き払う決心がやっとついた。

「さゆみ、梱包が終わったものから運び出すから、こっちに出してくれ」

 部屋の片づけに、斗真は全面的に力を貸してくれた。彼の左手の薬指には、もう指輪はない。

 さゆみも斗真も大切なものを失くした。けれど、普通の顔をして生きている。そのうち、思い出すことさえしなくなるのだろうか。
 大基が帰ってきたら、過去からすべてやり直せると思っていた。けれど、大基は絵の中に塗り込められたままだ。遺骨は家族の元へ戻った。もう二度と顔を見ることは出来ない。

 人生は失うことがすべてなのだろうか。手にしたものは幻のように消えてしまうだけなのだろうか。

「さゆみ? どうした、ぼーっとして」

 呼ばれたけれど、振り返ることが出来ない。いつか失くしてしまうなら、最初から手に入らない方がいい。そうしたら傷つかずにすむ。
 斗真がこれ以上、大切になってしまう前に、私の中から消してしまえば……。

 ギシっとすごい音がした。
 トイレの前の床がきしむ音。斗真がこちらに歩いてきている。
 さゆみを心配して手を伸ばしてくれる。優しい手を。

 ああ、だめだ。
 やっぱり、だめだ。
 もう失う辛さには耐えられない。
 斗真を忘れてしまおう。
 私の中から、消してしまおう。

 その決心を伝えようと、さゆみはゆっくりと振り返った。
 そこに、斗真はいなかった。
 いや、斗真はいる。いるけれど、それは斗真の背中だけだった。
 背中、背中、背中。

 斗真はどんな顔をしていた?
 斗真はどんな声をしていた?
 斗真はどんなふうに笑った?
 斗真は本当に私の側にいた?

 わからない。何も思い出せない。
 見えるのは、ただ、背中。
 そこにあるのは、ただ、背中。
 さゆみは消えてしまった斗真の、残された背中を、ただ、見つめていた。


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