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金の籠 5

 背中の傷は嘘のように消えた。あんなに痛んでいたのに、三日もすると痕かたもなくなった。依子のひどい手荒れを治したように、不思議な甘い水が怪我の治りを速めたのかもしれなかった。

 日に二回、その舞台は上演された。歌うのは歓喜の歌一曲だけ。何度も何度も壊れたレコードのように同じ曲を繰り返すだけ。
 依子はすぐにドイツ語の歌詞を覚えてしまった。それでもこの劇場に集まった異形たちは満足そうに繰り返される第九を聞いていた。

 ある日、異形が籠に入った小さな子供を連れてきた。まだ三、四歳ほどに見える女の子だった。その子は籠の中で泣き喚き、顔は涙でボロボロだった。
 異形は籠を床に置いて出口を開けたが、子供は恐がって出て来ない。異形は籠を横向きに持って揺すった。子供はお椀や布と一緒に籠から転がり落ちてきた。

 依子はあわてて子供のそばに駆け寄り、抱き上げた。子供は耳が痛くなるほどの大声で泣いた。裸のままのその子を、依子は自分の黒い布の中に抱きこんだ。
 先ほど異形がばらまいた籠の中身の中から布を取り、子供の体に巻いてやる。子供が泣き疲れてだまってしまうと、依子は子供の目線に合わせるようにひざまずいて子供にたずねた。

「お名前は? お名前、言えるかな?」

 子供はぽかんとした顔で依子を見つめる。その外見からアジア人であるように思えたが、日本人ではなかったらしい。途方にくれていると、一人の男性が近づいて来て、子供の前に座り込んだ。二人は中国語で会話を始めた。依子はほっとして二人から距離を取った。

 この部屋では互いに縄張りがあり、一定以上人と近づくことはない。最初は戸惑った依子も、数日たつと自分のテリトリーから外へ出るのが不安になった。しのぶに聞きたいことは色々あったが、しのぶのテリトリーは部屋の反対側で、そこまで行くのは怖ろしかった。自分の場所を離れたら、また見知らぬ場所に放り出されるのではないかという恐怖を感じた。

 子供の名前はティャオと言うらしい。男性と一緒に彼のテリトリーに入り、彼の膝にもたれて眠った。しばらくするといつも通り異形がやってきて皆を一列に並ばせた。

 ティャオは男性に抱きかかえられ眠ったまま舞台に運ばれた。男性はティャオを起こさないようにそっと歌っているようだった。

 舞台が終わり廊下に出ると、異形が棒を片手に男性からティャオを奪い取ろうとした。男性は抵抗してティャオを胸に抱きかかえ、うずくまった。
 異形は男性の背中を殴り付けた。何度も殴っているうちにティャオが目を覚まし大声で泣き出した。男性はティャオをぎゅっと強く抱きしめたまま気を失ってしまった。

 異形は抱えていた男性をぶら下げたまま部屋の扉を開け、床に放り出して出ていった。開いていた扉は音もなく閉まり、一枚の壁に戻った。

 依子は、ティャオの籠から転がり落ちたまま放っておかれた小ぶりのお椀に、部屋の隅にある水場から水を汲み、男性の傷ついた背中にかけてやった。
 男性は小さく呻いたが、何度も繰り返すうちに意識がはっきりとしたようで身を起こし、手振りで依子に礼を言った。
 胸に抱いたままだったティャオの顔を覗きこみ笑ってみせると、ティャオは男性の胸にすがりついて泣きだした。依子はお椀をその場に置くと自分のテリトリーに戻って、膝を抱えて眠りについた。

 ティャオは男性の腕の中でいつまでも泣き続けた。眠っていた依子もその大声に目を覚まされた。あたりを見渡してみると、皆が迷惑そうにティャオを睨んでいる。ティャオを抱いたまま、男性は気を失ってしまっているようだった。依子はティャオに歩み寄ると頭を撫でてやり、子守唄を唄いはじめた。ティャオはじょじょに泣きやんで、大きなあくびをすると、男性の腕に抱きついて眠ってしまった。

 突然、壁が開き異形がやってきた。まだ公演時間ではない。皆が驚いて異形を見つめる。異形は大股に歩み依子に近づくと、依子の腕をつかみ何事かを叫んだ。キーキーとガラスを引っ掻くような音に耳を塞ごうとした依子の両腕を異形が押さえこみ、依子を揺さぶった。

「歌え、と言ってるのよ」

 耳を塞いだしのぶが遠くから声をかけた。依子はぽかんと口を開けた。

「こいつらの言葉が分かるの?」

「わかるわけないじゃない。でもこいつらはいつもソロで歌える人間を探してるのよ」

 わけがわからないまま依子は揺さぶられ続けた。頭がぐらぐらと揺すられ気分が悪い。異形は依子から手を離すと懐から棒を取り出した。依子の顔から血の気が消える。

「やめて! 歌うから!」

 手振りで異形を押しとどめ依子は必死に歌おうとした。けれど恐怖で頭が働かず言葉が口から出て来ない。異形が大きく棒を振りかざす。
  殴られる!
 依子が目をつぶり体を硬くした瞬間、歌声が聞こえた。

 しのぶが歌っていた。
 立ち上がり胸を張り堂々と歌っていた。その部屋にいた誰もがしのぶを見つめていた。しのぶはまるで歌の女神のように神々しかった。
 異形はギラリとした目でしのぶを見据え、しのぶを掴み上げると大急ぎで金の籠に閉じ込めて部屋から連れだした。

「しのぶ!」

 依子の叫びに、しのぶはそっと笑って見せた。その笑顔は壁の向こうに消え、二度と見る事ができなかった。

#創作大賞2023 #ファンタジー小説部門

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