憑 狂 ~ツキクルウ~ Ⅵ
それから、何度か百合子の部屋に通った。百合子に背中を見つめられると、いつも寒気がして脂汗が流れる。モデルとは、こんなに体に負担がかかるものなのか。
大学で人体デッサンをしながら、モデルの女性の胆力に舌を巻いた。
けだるい体をひきずって、どうにか講義を終えて駅にむかっていると、さゆみが走って追いかけてきた。
「話があるんだけど」
目を吊り上げている。ああ、怒ってるな、とぼんやり思う。
「なに? 早く帰りたいんだけど」
さゆみの目が、さらに吊りあがる。
「あの女の部屋に通ってるって、ホントなの?」
低い声で聞く。あの女……? 大基の頭は、ぼーっとして、何の話かよくわからない。
「あの女?」
さゆみは声を荒らげた。
「高坂百合子よ! 一人暮らしの女の家に通ってるって、どういうことかわかんないの?」
「モデルに行ってるだけだよ。卒業制作の」
「絵なら学校で描けばいいじゃない! あんたはホントにあの女の魂胆がわかんないの?」
大基はさゆみの顔を眺め、こういう顔の能面があったな、あれはなんて名前だったっけ、とぼんやり考えていた。
「魂胆って、なんの」
「あの女、男狂いなのよ! 知ってる? 彼女の学費、橋田坂下が出してるのよ。ただのモデルにそんなことする? それから、橋田の弟ともデキてるって、そのスジじゃ有名なんだって!」
大基は思わずフっと笑う。
「どこにあるんだよ、そのスジって。コメカミあたり?」
笑われて、さゆみは怒りが頂点を越えたようだ。手にしたカバンを大基の胸めがけて投げつける。涙をうかべ、歯をくいしばっている。
「いたいな、なにするんだよ」
あくまで冷静な大基を睨みつけた。
「気付いてないの? あんた、だんだんあの女と同じニオイになってきてるのよ!」
「ニオイ?」
大基は自分の腕をにおってみる。
「そうじゃなくて! 具体的なニオイのことじゃなくて、なんていうか……。あるでしょ!」
「わかった、わかった。オレがかまってやらないから拗ねてるわけね。悪いんだけど慣れないモデルで疲れてるから、また今度にしてくれる?」
さゆみはぶるぶるとコブシを震わせていたが「バカ!」と叫ぶと、走って行ってしまった。
「……なんだ、あいつ」
大基はのっそりと身をかがめ、さゆみのカバンを拾う。落ちた時に散乱した中身を拾っていると、ポストカードが目に止まった。
橋田坂下の弟の、画廊の案内状だった。百合子が橋田坂下とデキているなどと言うキテレツな話は、橋田坂下ご本人を見た今では毛ほどの信憑性もなかった。
が、画廊を営む橋田の弟を大基は知らない。なんとなく、気になった。
大基はさゆみのカバンを担いだまま、繁華街に向かった。
いやに細長いビルの一階にある橋田画廊は、外から覗ける窓が無く、足を踏み入れにくい雰囲気だった。通りに面した壁には、百貨店のショーウィンドウのようにガラス張りの空間を設けてあり、橋田坂下の絵が飾られている。
百合子の肖像だった。
顔の右側が描かれていて、絵の中の百合子の視線は、ちょうど画廊のドアを見つめるように置かれている。百合子から画廊に入ることを促がされているように感じて、大基は思い切ってドアを開けた。
画廊の中には誰もいなかった。受付らしき机にも誰も座ってはいない。
その机に、さゆみが持っていたポストカードと同じものが置いてある。
ぐるりと室内を見回してみる。壁はぎっしりと百合子の絵で埋めつくされていた。それは絵を飾るというには執拗過ぎて、パラノイアにでも出会ったかのような、なにやら不安な気持ちを掻きたてられた。
絵から逃れたくて首を巡らせると、壁の一方に重そうな木製のドアがある。その金色のノブが回って一人の紳士が部屋に入ってきた。大基を見てにこりと笑う。どうやら、この画廊の人間のようだった。
「いらっしゃいませ。お出迎えもせずに失礼致しました」
「いえ……。おじゃましています」
仕立ての良い黒いスーツに身を固め、髪をオールバックにまとめた五十年配の紳士は、目をすがめるようにして大基を眺めた。
「もしかして……。百合子さんの弟さん?」
「いえ、ちがいます」
「失礼いたしました。知人に似ていらしたものですから」
丁寧に頭を下げる男に申し訳なく、大基はすぐに弁明した。
「弟ではないですが、百合子さんの知り合いです。百合子さんにも、弟と間違われたことがありますから」
「ああ、そうでしたか。実のお姉さまが間違われるのですから、本当にそっくりなんですね」
愛想のよい紳士だ。おそらくこの男が画廊のオーナー、橋田坂下の弟だろう。
「あの、百合子さんの弟と、会ったことはないんですか?」
「ええ。彼女が描いた弟さんの背中の絵を見せてもらっただけで。あなたは百合子さんの学校のご友人ですか?」
ちらり、と一瞬だけ、男の目つきがするどくなったような気がした。
「あ、はい、そうです」
「もしかして、坂下の家に招待されたと言うのは、あなたかな?」
「あ、はい。画伯にはお世話になりました」
大基はペコリと頭を下げる。
「ああ、いや、とんでもない。兄は元気にしていましたか?」
元気だったかと問われ返答に詰まった。挙動不審なあの状態は、はたして元気なのか病気なのか。迷ったが、とりあえず無事だったのだから、いいのだろう。
「お元気そうでした」
紳士は鷹揚にうなずく。
「しかし、あなたはラッキーでしたね。兄は人嫌いで、なかなか人を自宅に招いたりしないのですよ。私なんか、門もくぐらせてもらえない」
「いや、オレはどうやら、百合子さんの弟と間違われていたようで……」
それを聞き、男は笑い出した。
「なるほど、そういうことか。百合子君の作戦勝ちだ。弟を連れてくると言われれば、さすがの兄も嫌とは言えないな」
言葉を切り、真顔になって続ける。
「あの百合子君の頼みだからな」
わけありげな雰囲気に、思わず大基は尋ねた。
「百合子さんと橋田画伯は、一体、どういう……」
「さあ? モデルの個人的なことなどは、私は何も。仕事を残しているので、失礼するよ。ゆっくり絵を見ていってください」
今まで見せていた笑顔はビジネス用だと言わんばかりの冷たい表情で言い置くと、男は扉の奥に戻っていった。結局、何もわからないまま、橋田の弟は消えてしまった。自分は何をしに来たのだろうか。
百合子の絵姿に囲まれ、大基はしばらく途方にくれた。
帰宅すると、アパートの入り口にさゆみが立っていた。
「なんだ、入ってたら良かったのに……。あ、そうか、カバンはここか。鍵、なかったんだ?」
さゆみは黙って首を横に振り、パーカーのポケットから鍵を出して見せた。
「なんだよ。なんで入らないの?」
心なしか、さゆみの顔が青白い。
「……やっぱり、ヘンよ。大基の部屋」
「ヘンって、何が?」
「鍵、開けて入ったの。中で待ってようと思って……。そしたら、急にテレビがついて。誰もいないのに! あたし、怖くて……」
大基はフッと鼻で笑う。
「なによ! なんで笑ってるのよ!」
「怒るなよ。教えてやるから、来いよ」
そう言って歩き出したが、さゆみは動こうとしない。
「大丈夫だから。ホラ」
大基はさゆみの手を握ると、引っぱった。鍵を開けようとしたが、玄関は開いていた。
「お前、鍵かけずに出てきたのか? 不用心だろ」
「だって! 怖かったんだもん!」
嫌がるさゆみの手を引き部屋に入る。
無人の部屋でテレビだけが、真っ黒な光を放っていた。
大基はテレビのリモコンを取り上げると操作して、画面に「視聴予約」の表示を出して見せた。
「しちょうよやく?」
「そう。録画予約みたいに、設定しておいたらテレビが勝手につくようになってるの」
さゆみの肩から力が抜ける。
「なんだあ。なーんだあああ。もう、びっくりしたんだからあ。怖かったんだからあ」
力の入らない手で、大基の胸を、ぽすぽすと叩く真似をする。
「安心した?」
「した」
「もう怒ってない?」
「ない」
大基はさゆみをぎゅっと抱きしめてやって、しかし、ふと首をかしげた。
視聴予約なんていつ設定したっけ?
考えてみたが、思い出せなかった。
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