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背中4   憑 狂 ~ツキクルウ~

 さゆみは百合子の尾行に手間取っていた。新しい『背中』が完成したのだ。早くしなければ次の『背中』を百合子が見つけてしまうかもしれない。

 年齢が、合わないのだ。
 百合子の『弟』が大基と同い年だという設定なのだとしたら、二十五歳でないとおかしい。なのに、今回、完成した『背中』は二十三歳なのだ。二年前に完成されておくべきだったもののはずだ。

 百合子は、すぐに次の、二十五歳の『背中』を見つける。さゆみは確信していた。なぜ自分がそんなことを思うのかわからないが、間違いないと自信を持って言えた。
 大基が消えてから、百合子を追い続けたのだ。今では誰よりも百合子のことを知っている。

 百合子が出かける場所、出かける時間、通る道。どれも余さず把握している。そのために、休みを取りやすい職場を選んだし、生活のほとんどを百合子を尾行することに使っていた。
 
 その経験をもってしても、今回の百合子の神出鬼没ぶりには振り回されている。百合子の自宅である、元、橋田坂下のアトリエだった家には近寄れない。百合子のストーカーとして接近を禁じられてしまったのだ。それでも、その家から駅までのルートはチェックしているし、どの道を通るのか勘が働くようになっていた。

 だが、その勘の裏をかいてきているようで、百合子をとらえきれない日が続いた。焦って、接近禁止令を無視して百合子の家に近づいてしまったちょうどその日、『背中』が搬出されたのだった。

 百合子と美和が家から出てきて、『背中』を積載したトラックの後をタクシーで追っていくのを見た。
 すぐに画廊に向かったが、そこに百合子はいなかった。『背中 二十三歳』がさゆみを待っていた。たしかに、その絵はさゆみに語りかけていた。なぜ助けてくれなかったのか、と。

 もう、時間がない。接近禁止なんか、かまっていられない。百合子の家に乗り込もう。そうして、力づくで百合子を止めよう。たとえ、私がどうなっても。

 百合子の家の門の前で、鉄扉をよじ登ろうと手をかけた時、呼び止められた。

「加藤田さゆみ、迷惑防止条例違反の現行犯だ」

 振り返ると、ぼろぼろのジーンズ姿の男が立っていた。

「一緒に来てもらおうか」

 尻ポケットから警察手帳を出してみせた男に逆らうことなど出来ない。さゆみは唇を噛んだ。

 男はなぜか警察署に向かわず、近所に一件だけある喫茶店に向かった。

「食えよ。あんた、まともにメシ食ってないだろ」

 男はさゆみの意見も聞かず、ブレンドコーヒーとミックスサンドを二つずつ注文した。さゆみは目の前に置かれたサンドイッチを見て、眉間にしわを寄せた。

「腹が減ってなくても食べておかないと、この先、もたないぞ」

 男の顔を見上げる。言っていることがわからない。けれど、どうやら、さゆみを逮捕するつもりではなさそうだった。
 男の言う通り、さゆみはもう二日、まともな食事をとっていなかった。百合子を尾行するために会社を休み、短期決戦のつもりで眠りもせずに百合子宅を見張っていたのだ。

 コーヒーのカップを両手で包んで一口飲んだ。凍えきっていた身体にゆっくりと熱がいきわたる。とたんに、空腹を感じた。サンドイッチに手を伸ばして齧りつく。噛む間もなく飲み込む。つぎつぎにサンドイッチを頬張り、ろくに噛まずに食べ終えて、コーヒーを一気に飲み干して、やっと人心地ついた。

「あんた、この男を知ってるだろ」

 刑事が差し出した写真の男を、もちろん、さゆみは知っていた。

「高橋大佑。高坂百合子のモデル」

「そうだ。家族から捜索願が出された」

 大佑は二か月ほど前から百合子宅に入ったまま出てきていない。大基の時と同じだ。百合子のモデルになった男は、いなくなる。

「あんたは、あの女のストーカーとして通報された。けどな、俺はあの女の方が通報されるべきだと思っている」

「なんの罪で?」

 刑事はさゆみの顔をじっと見つめた。さゆみは目をそらさず、睨むように見返した。

「誘拐罪だ」

 さゆみは、ふうっと息を吐いた。体中の力が抜けた。椅子に深く背を預け、両手で目を覆った。驚きで手が震えて止まらない。
 いたのだ。自分以外にも、あの女を追っている人間が。

「あなたは、どこまで知っているの」

 さゆみの問いに、刑事は答えず、自分の前に置かれたミックスサンドに向き合った。

「とりあえず、飯を食う時間をくれ。俺も昨日から食えてないんだ」

 さゆみは、ゆっくりとうなずいた。時間はない。けれど、時間をかけて考えなくてはならない。『背中』のことを、刑事に伝える言葉を、さゆみは探さなければならないのだから。

 刑事は存外、きれいにものを食べる男だった。
 さゆみは男性の食事の仕方にうるさい。食べ方が汚い男とは同席しないと決めている。学生時代の合コンの時も、食べ方が汚い男がいたら、さっさと帰っていた。

「で、俺がどこまで知ってるのか知りたいんだったな」

 コーヒーカップから口を離した刑事が言った。さゆみは黙ってうなずく。

「ギブアンドテイク。それでいいだろ。あんたが先に話せよ」

「なんで。話しかけてきたのは、そっちでしょう」

「弱みがあるのは、あんただよな」

 まったく、その通りだ。さゆみは軽くため息を吐いて話し始めた。

「あの女が報道されたゴシップ記事は全部調べた。新聞記事もね。いなくなった男たちの名前も、住所も、訪ねてみた。あの女の生活もだいたい把握してる」

 追加で頼んだコーヒーを一口飲んで黙りこくったさゆみに、刑事は手を振ってみせた。

「もっと話せよ」

「あなたが話す番でしょう」

「あんたの話を全部聞いてからだ。あんたは、肝心なところを話していない。なぜ、高坂百合子を追っている」

 さゆみはまた、ため息を吐いて、テーブルに肘をつくと祈るように両手を組んだ。

「『背中 二十歳』のモデルは元宮大基よ。元宮大基は私と付き合ってた。二十歳の時、大基は消えたの。大基はあの女の家に行って、そこで消えた。私は大基を探してる。消えてしまった大基を」

 震えて、それ以上話せなかった。刑事はテーブル越しにさゆみの肩をぽんと叩いた。

「すまんな、試すようなことをして。あんたが本気であの女を調べているのか知りたかったんだ」

「本気じゃなかったらストーカーになんかならないわ」

「だな。じゃあ、俺の知っていることを話そう。もちろん、捜査に支障のない範囲でだが」

 刑事は無精ひげの生えた顎をじょりじょりと触りながら視線を天井に向けた。考え考え話していく。

「まず、橋田画廊の受付、船木美和。彼女は何も知らないし、話さないな。あの女に心酔しているのかもしれない。あたっても時間の無駄だ」

 美和から情報を得ようとは思っていなかったさゆみは、刑事の捜査方法というものに興味を持ったが、聞いてももちろん、教えてはくれないだろう。黙って続きを待つ。

「同じように、画廊のオーナーも、あんたには話さないだろう。逆に聞き出そうとやっきになるだけだろうな」

 それはそうだろう。尾行して、なにか弱みを掴んでから、あたるつもりだった。

「そうすると、あんたはもう何も出来ることがないわけだ。あの女のことは忘れて、普通に生きるのがいいんじゃないか」

 さゆみは刑事の言葉を鼻で笑ってみせた。

「普通とか、そういうのは、どうでもいいんで。時間の無駄ですから、話したいことはさっさと話してください」

「あんた、かわいげがないって言われない?」

「余計なお世話です」

 刑事はニヤリと笑った。

「わかった。聞きたいことはひとつなんだ。『背中 二十三歳』。あの絵は、本当に高橋大佑なのか?」

「そうよ。ずっと尾行して、彼の家も知ってる。百合子の家から出て来なくなった時期も」

「あんた、警察関係者の前で男を尾行したなんて、ぶっちゃけるのはよせよ」

「私は何も怖くないわ」

「こっちが怖いんだよ。犯罪の話を聞いて聞き流すのって勇気がいるんだぜ」

 さゆみは素知らぬ顔で会話を続ける。

「高橋大佑は去年、二十二歳の時から高坂百合子のモデルをしている。出会ったきっかけはわからなかったわ。そのへんのこと、警察の力で調べられるのかしら」

「まあ、不可能じゃない。詳細は話せないけどな」

「なら、何なら話せるの」

「あんたの彼氏のことなら、語り合える。あの女のモデルになったきっかけってなんだ?」

「そんなこと、とっくに知ってるんじゃないの?」

 刑事はとぼけた顔で首を横に振ってみせた。

「残念ながら、元宮大基が消えたってことは、あんたしか知らない。なぜだか元宮の家族は捜索願を出さなかった。大基のことを探しているのは、あんただけだ。それはなぜだ?」

「大基の家族が黙っているのは、お金のためよ」

 今度は刑事がため息を吐いた。

「金の出どころは、あの女か」

「もちろん。大基はあの女と一緒に、今もあの家、橋田坂下の家に暮らしていることになっている。大基の家族の間ではね。もちろん、そんなこと、家族の誰も信じていないのにね」

「あんたは話さなかったのか」

「話したわ。何度も。大基が大学であの女からモデルを頼まれたこと。あの女の家に通い出してから姿を消したこと。完全に行方不明になった時も、最後はあの女のところにいたことも。でも、大基のお父さんも、お母さんも、苦笑いするだけ。私の頭がおかしいとでも言いたいみたいに」

 さゆみは鼻を鳴らして笑う。

「でも、本心は、違う。彼らは知ってて黙っているの。大基に帰ってきて欲しいなんて、ひとかけらも思っていないのよ」

 さゆみは唇を噛んで考えていたが、低い声で打ち明け話をするように口を開いた。

「大基の両親は再婚で、義理の母親は大基をかわいがらなかったそうよ。父親は母親の言いなり。大基の腹違いの弟はまだ四歳。大基の存在すら知らないの」

 コーヒーカップを持ち上げて、カラになっていることに気付き、ソーサーに戻す。さゆみの目はコーヒーカップの底に向いている。過去を覗き込むように静かに見つめている。

「大基を守れるのは私だけだったのに……」

 刑事は前かがみになって、小声でさゆみに尋ねた。

「あんたは、元宮大基は生きていると思うか?」

「生きているわ」

 さゆみは刑事の目を正面から見て強い口調ではっきりと言いきった。刑事はゆっくりと瞬きをして、次を問う。

「どこにいるか知っているのか?」

「知っているわ」

「どこだ? 軟禁でもされているのか?」

「軟禁? そうね。近いかもしれない」

「居場所がわかっているなら、どうして警察に通報しない」

「しても無駄だから」

「なぜ」

 さゆみは刑事を睨みつけているかのような強い視線をそらさない。

「大基は、あの絵の中にいる」

「あの絵?」

「『背中 二十歳』あれは大基なの」

「それは聞いた。元宮大基がモデルをしたと」

「モデルは消えるの。みんな、絵の中に塗り込められるのよ」

 刑事はいぶかしげに眉根を寄せた。

「どういう意味だ?」

「その通りの意味よ。モデルをした人間は、みんな消える。みんな、絵の中に取り込まれるの。死んでなんかいない。あの絵が、あの絵そのものが大基なの」

 刑事は黙ってさゆみの目をじっと見つめ続けた。さゆみも目をそらさない。刑事の目は揺れていた。
 信じられないと否定する気持ちだけではない。信じようとしている思いがあると、さゆみは感じた。
 刑事がソファからゆっくり身を起こして目を固く瞑る。腕組みして、ふーっと大きなため息を吐いた。

「本気で言ってるのか」

「本気よ」

「そんなこと、誰も信じない」

「あなたは違うわ」

 目を開けた刑事は、さゆみの強い視線にさらされた自分の心の傾きに気付いた。半分は刑事として、世間の常識に沿った目でさゆみを見ている。しかし、もう半分は、この不可解な事件に奇怪な力が働いていると感じて一人で動いていた自分の勘を信じようとしていた。

「みんな消えて、残るのは絵だけなの」

 さゆみの言葉は力を失わない。

「大基は、あの絵の中にいるのよ」



「加藤田、ちょっといいか」

 出勤してから一時間。朝の一番忙しい時間帯をこなして一息ついたところで、さゆみは先輩である柚月斗真に呼ばれた。
 斗真のデスクではなく、フロアの隅、パーティションで区切られたコーヒーサーバーのあるスペースに手招かれる。ほかの社員の士気低下を防ぐために聞かせるべき話ではないということだ。あるいは、さゆみの今後の進退のために。
 心当たりはある。さゆみは覚悟を決めて、歩いていった。

「まあ、コーヒーでも飲むか?」

 斗真が備え付けのプラスチックのコーヒーカップを取ろうとするのを、さゆみは首を振って止めた。

「お話はなんでしょうか」

 斗真は天井を仰いでため息を吐いた。

「かたい。かたいなあ、加藤田。もう少し、フランクになった方がいいと思わないか?」

「必要ありません。お話の内容はわかっていますし」

 斗真は額をぽりぽりと掻きながら、言いにくそうに言葉をこぼした。

「その、なんだ。課長からだな、伝言というか……、なんというか」

 さゆみは肩越しにちらりと課長席に視線を送る。課長はかたくなに、こちらに意識を向けないようにしているらしい。不自然に肩に力が入っている。

「私の勤務態度ですよね。有給休暇を一度に使いすぎている。遅刻も早退も多い。仕事中の集中力にも欠けるし、業績も……」

「ストップ。ストップだ、加藤田。そんなに畳みかけられたら、何も話せないじゃないか」

「でも、もう話すことはないんじゃありませんか。言うべきことは、今、私が全部、言いましたよね」

 ぐっと言葉に詰まった斗真は、それでも、さゆみから目をそらさなかった。

「困っていることがあるなら、相談に乗る。どんなことでも」

「男女関係のことでもですか」

 さゆみはポツリと呟く。斗真が目を大きく見開いた。

「男女関係のことなのか!?」

「先輩、声が大きいです。席を離れた意味がありません」

「っと、そうだな。すまん。……で?」

 斗真はそこで言葉を切り、きまり悪そうに視線をさ迷わせた。

「で? ってなんですか?」

 知らぬふりで言ってみせたさゆみの顔をチラリと見て、斗真は意味ありげに瞬きをした。言葉の先を促しているつもりなのだということはわかったが、さゆみは無視して黙っている。斗真はしばらく口を閉じたままもごもご言っていたが、思い切った様子で口を開いた。

「おい、加藤田。なんとか言ってくれよ」

「何をですか」

「悩みの内容だよ。その……、男女関係のことなのか」

 どこか苛立たし気に、小声になった斗真を、さゆみは興味深く観察した。
 きれいにアイロンが当たったワイシャツ、いつも趣味の良いネクタイ、ハンカチもしっかり持っているところを見たことがある。
 奥さんの気遣いが行き届いているのだろうと思って、いつも感心して見ている。

 左手には細めのプラチナリング。
 結婚記念日には早退して手作りの料理を用意するとか、奥さんの誕生日には年の数だけ真っ赤な薔薇を買うだとか、どれも女子社員の噂でしかないが、本人も、その噂を耳にしてまんざらでもない顔をしていた。

「私の男女関係が、先輩になにか関係が?」

 斗真は軽く口を開けて、だが、なにも声にならないようで、また閉じた。口を手で覆って、俯いて何か考えている。

「加藤田」

「なんでしょうか」

「帰り、付き合わないか」

「お酒ですか」

「飲めたよな」

「飲めますが」

「聞いて欲しい話がある」

 自分の方が話を聞かれる対象だったはずなのに。さゆみは斗真の意外な切り返しに、不意を突かれた。

「はあ」

 間抜けな返事をしたさゆみを置いて、斗真は自分のデスクに戻って行った。課長がちらりと斗真に視線を向けたが、斗真はデスクに顔を向けたまま、書類を手に取った。
 斗真の意図がまったく掴めないまま、さゆみは仕事に戻った。

 終業時間を過ぎるとすぐに、斗真は席を立った。誰とも言葉を交わさず、さゆみにも無関心な様子でロッカールームに向かっていく。さゆみは、あわてて自分の仕事を片付けて、斗真の後を追った。
 コートを羽織る間もなく社外に出ると、斗真は会社のすぐ目の前の歩道の真ん中に立っていた。さゆみを待っているようには見えない。じっと、歩道を睨みつけている。

「……お待たせしました」

 何というべきか、一瞬悩んだが、さゆみは無難な挨拶を投げかけた。斗真は顔を上げずに「じゃあ、行こうか」と呟いて歩きだした。

 後をついていくさゆみのペースを考えていないようで、斗真は大股でどんどん進んでいく。さゆみは小走りに追いかけて、追いついた時には店についていた。
 いつかランチに来たサバ料理の専門店だった。

 暖簾をくぐっても「いらっしゃいませ」という声もない。斗真は慣れた様子で奥の小あがりに落ち着いた。さゆみも続いて靴を脱ぐと、すぐに女将がやってきた。客が入ってきたことには気づいていたのかとホッとした。
 ビニール袋を破ってお絞りを出しながら斗真に目をやったが、斗真は卓を見つめて何かを考えている。思いつめた様子に、さゆみも居住まいを正し、斗真が喋りだすのを待った。

「聞いて欲しいことがある」

 斗真は一度、口を開いたのだが、また黙り込んでしまった。その間に女将が注文を聞きに来て、それでも斗真が動かないので、さゆみがビールを注文した。
 そんなことも気づいていないのかと思っていたが、ビールがやって来ると斗真は一気にビールをあおったので、さゆみは呆れて待つのをやめた。

「なんですか。私に辞職勧告でもするんですか」

 斗真は首を横に振った。

「好きだ」

 ぽつりと斗真の口から出た言葉は、唐突で、すぐには意味がわからなかった。さゆみは眉をひそめて黙っていた。

「俺は、加藤田が好きだ」

「先輩、愛妻家じゃなかったんですか」

 さゆみは感動のこもらない声で言葉を返した。斗真は深く頷いた。

「俺は妻を愛している」

「それで?」

「加藤田」

 斗真が顔を上げた。目が真っ赤で、今にも泣きだしそうだった。

「妻に会ってくれないか」

 さゆみはあっけに取られて、なんとも返事が出来なかった。

 斗真の自宅は小奇麗なマンションの一室だった。斗真がカギを開けて、さゆみを招いた。部屋の中は温かく、廊下にもその先の部屋にも明かりがついていた。
 けれど斗真は「ただいま」も言わずに奥へと進んでいく。

「……おじゃまします」

 さゆみは斗真に聞こえるか聞こえないかの小声で呟いて靴を脱いだ。

 廊下の奥はリビングだった。十畳もあるだろうか。広くて、掃除が行き届いていて、明るくて、なにか懐かしい香りがした。
 この奇麗な洋室には似合わない古風な香り。何だっただろうと考えていると、斗真はリビングから左の部屋に続く引き戸を開けた。

 その部屋には明かりがついていない。もしかして寝室だろうか。早い時間だが、斗真の妻はもう就寝していたのだろうか。
 さゆみは斗真の意図が読めずにうろたえて、開いた戸から部屋の中が見えないところまで後ずさった。斗真は静かに部屋に入って行き、電気をつけた。

「加藤田、俺の妻だ」

 呼ばれて、そっと、開いた戸の陰から顔を覗かせると、部屋の奥に大きな仏壇があった。若くて美しい女性の遺影が飾られている。懐かしいと思っていたのは線香の香りだった。気付くと、急に香りが強くなった気がする。

「妻の恵奈えなだ。三年前に亡くなった」

「えっ……。だって、先輩、愛妻弁当……」

 斗真は顔を伏せてしまって表情がわからない。

「妻が作ってくれていた料理のレシピは全部、書き残してあるんだ。彼女の死は突然じゃなかったから。俺は彼女の生きていた証をなぞって、彼女の影をたどって、やっと生きてきたんだ。彼女がいない世界は俺にとっては意味がなくて」

 斗真は顔を上げない。さゆみは何故か、その表情がわかるような気がした。斗真と同じ顔を、何年も、鏡の中に見続けていたような、そんな気が。
何も言わず、黙って聞いていると、斗真はぽつりぽつりと言葉を切って話していく。

「彼女のために、料理をするんだ。毎日、二人分。そうして、テーブル越しに話しかけているんだ。気付いたら俺は独りで。恵奈がいないことに打ちのめされる。毎日だ。毎日、俺は恵奈を失い続けるんだ」

 斗真の声は無機質で、どこかいびつで、踏みつぶされて原型をとどめていないペットボトルを思わせた。

「加藤田。俺はまた生きたいと思うんだ。お前の力になれたら、俺は生き返れるような気がする。何故か、そう思うんだ」

 さゆみは一歩、斗真に近づく。斗真が顔を上げた。昼間の顔からは想像できない、蝋人形のように血の気のない、力のない表情だった。

「先輩、私も影をたどって、打ちのめされ続けて、生きているんです。私は、ずっと探し続けているんです。あの人を取り戻すために」

 さゆみの視線を斗真はまっすぐに受け止めた。

「話を、聞いてもらえますか」


 さゆみの話を聞き終えた斗真は、ぐったりとリビングのソファに埋もれた。両手で顔を覆って表情は読めないが、疲れ切っていることはわかる。

 長い話だった。
 さゆみが見てきたこと、調べたこと、感じたこと、刑事にも話さなかったこと。すべてを斗真に話した。どうしてそんなことをしたのか、さゆみにはわからなかった。理解して欲しかったわけではない。憐憫を垂れて欲しかったわけでもない。同情も、愛情も、斗真から受け取るつもりもない。だが何故か、話すべきだと思ったのだ。

「それで」

 ぽつりと斗真が言った。

「これから加藤田はどうするんだ」

「取り戻します、大基を」

 さゆみは、からっぽのリビングに響く言葉が自分の口から出たことに驚いた。何年も、自分がなんのために百合子を追い続けているのか、忘れていた。本当は大基のことも忘れていたような気がした。ただ、追い求めることにだけ、執念だけを抱いていたような気がした。

 するり、と出てきた言葉は、斗真が求めた言葉だったのかもしれない。求めても、もう二度と取り戻すことが出来ない斗真が、言いたかった言葉なのかもしれない。出来ることならば、黄泉の国まで妻を取り戻しに行きたかった斗真のための、救いの言葉だったのかもしれない。斗真の顔に赤みが戻っていた。

「その、高坂百合子という女のところに行くのか」

「行きます」

「俺も行く」

 さゆみは驚いて目を見開いた。

「なんで……」

 斗真は、ふっと口元だけで笑うと、ソファから身を起こした。

「加藤田が失恋した時に、その弱みにつけこむためかな」

 さゆみはしばらく、じっと斗真を見つめていた。斗真はずっと、さゆみと視線を合わせることなく、奥さんの遺影を見つめていた。

「先輩、名前、何でしたっけ」

「柚月斗真だ。それくらい、覚えててくれても、いいんじゃないか」

「大ちゃんじゃないですよね」

 冗談を言っているのかと思うほど軽い口調だったが、さゆみの目は真剣そのものだった。斗真は真面目に言葉を返した。

「逆さにしても、ローマ字にしても、大ちゃんなんて呼び名にはならないな」

「なら、行きましょう。私が失恋なんかしないっていうところを見せてあげますから」

 宣言したさゆみは玄関に向かう。斗真は妻の顔を見つめてから、そっと灯りを消した。


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