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あの夢はもうかなわない
夏休み、ひろこおばちゃんの家に行くのが、小学生時代の最大の楽しみだった。
洗練されたお屋敷は昭和初期に建てられたらしいが、手入れがよく傷みもない。
美しい水が満ちた池には錦鯉。池のまわりの樹木はいつもきれいにととのえられていた。
白い漆喰塗りの塀の中に一歩入ると、世界が違うのかと思うほど空気が澄んでいた。
ひろこおばちゃんが、このお屋敷の住み込みの管理人だと知ったのは小学校に上がってから。
大企業の保養施設で、社員が利用していたらしい。その予約がないときは、ひろこおばちゃんの知己を泊めてもいいと許可が下りていたのだそうだ。
別府にあるものだから、源泉からお湯を引いてあり、そのお屋敷にいながらにして温泉を堪能できた。6人ぐらいが同時に入れる広い岩風呂。蛇口をひねればいつでも温泉に浸れる。
裏庭にも温泉が引かれていて、井戸のような作りの「地獄」と呼ばれるものがあった。
24時間365日、もうもうと湯気を上げる地獄には網が張ってあり、そこにザルを乗せる。こんもりと、ザルに野菜や卵を入れて蒸すのだ。
これが、美味しい。
味付けしなくても、ほんのり塩気を感じて、野菜は甘みが増す。
ひろこおばちゃんは料理上手で、手の込んだメニューでもてなしてくれたが、じつは地獄蒸しが一番好きだった。このことは、今も絶対のヒミツだ。
大きくなったら、ひろこおばちゃんの跡をついで私がここの管理人になるんだ。掃除も完璧にするんだ。
そう夢見ていたのは、バブル期が終わるまで。大企業といえど不況には勝てず、保養所であるお屋敷を売却することになったのだそうだ。
お屋敷は取り壊され、マンションが建てられた。
あの広い岩風呂も、ジリリンと鳴る電話機だけが壁にかけられた電話室も、煮えたぎる地獄も、みがき上げられた広い座敷も、障子を開けると見える青々とした庭も、もうなにもない。
百年近くの歴史が、あっという間に消えてしまう。遺跡にもなれない。ただ、なくなる。
私の夢も消えてなくなる。
とは思わない。あのお屋敷で過ごした日々の思い出が、今も私にあの日の夢を見せてくれるから。
あの日の夢は叶わないけれど、あの日の夢は、私の胸の中、ちゃんと生きている。
ガス火で蒸した野菜は、それでも少し、苦いのだけれど。
執筆に必要な設備費にさせていただきたいです。