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物部守屋を殺して!が日本仏教の始まり? 四天王寺は物部の民が維持してきた


四天王寺西門石鳥居

四天王寺の縁起で、必ず語られるのが、蘇我物部戦争です。

物部氏は、仏教に反対し、それが原因の、一種の宗教戦争として語られます。

若き耳皇子(聖徳太子)も蘇我の一員として参戦し、物部守屋討伐を祈願し、四天王の小像を刻み、戦に勝てば寺を建立すると誓った。

守屋一族郎党に加えられた殺戮の悲惨な結末は、仏の慈悲のかけらもないものとなります。

敵を殺す誓願が、この国の仏教の始まりだとするならば、実に不幸なことです。

蘇我物部戦争が、宗教戦争であったのか、大いに疑わしい。


谷川健一さんが「四天王寺の鷹」で明らかにしたことですが、四天王寺は物部の末裔を自称する人々により維持されてきた。

守屋討伐の誓願が事実だとしても、四天王寺建立の力となったのは、物部支配下にあった、地元の人々であったようです。

物部の部民にとり、四天王寺は自分たちの誇りでもあった。

守屋一族郎党は滅びます。しかし、物部氏が滅びたわけではない。

もし、四天王寺の縁起を語り直すのであれば、戦勝祈願の意味を再考すべきです。

聖徳太子は、父用明天皇を、物部守屋が画策した暴動での傷がもとで喪います。守屋に対する怒りもあったでしょう。しかし、仏への誓願として、敵討ちをしてくれと祈るでしょうか。


戦いの後の虚脱感のなかで、なにより重大な課題は、和解であり、永遠の平和をもたらす叡知である。

勝ったと喜んで、建立したのが、四天王寺ではないだろう。

荒陵の仁徳期以来の水の聖域に、新たな願いをこめて、緻密な設計のもとに寺院を建立された。しかも、不死鳥のように、原形を維持しながら再生し続ける、不思議な寺を、聖徳太子は生み出したのです。

水と太陽の、永遠の祈りとして。

亀井水

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