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保守ならば聖徳太子に帰ろう、リベラルならば聖徳太子を再発見しよう。

雀とヒヨドリは、対照的な行動をとる。

雀は基本群れで行動しながら、個としても自由に動く。ヒヨドリは基本個として行動し、ために動きはすばやい。

で、人間である。

保守とリベラル、という対立がよく語られる。

ある人によれば、橋下とおるちゃん、はリベラルなんだそうだ。え、と思う。

先の大阪市廃止解体住民投票のさいも、リベラルを標榜する人が、無頓着にトコ~ソ~という言葉を使ったり、大阪市を守れを心情的退嬰と論ずる。

伝統的価値観を大切にするのが保守ならば、聖徳太子からの1400年の伝統をエッセンスとして身につけていなければならない。それが、わずか70年しかない大日本帝国の価値観を伝統とするなど、単なる近視眼でしかない。

話し合いに価値はないという、二重行政批判のとんまな理屈が、リベラルだとされるのか。

話し合いを嫌う極論の個人主義に徹底するならば、黙って隠遁してほしい。権力も権威も捨てて、話し合いは無駄だというならわかる。権力は取るが、話し合いはしない。なにそれ。

今、無論理の我欲と、論理と情理の分別とが、対立している。

保守もリベラルも関係ない。

ヒヨドリは雀の群にまじっても、群を蹴散らそうとはしない。ヒヨドリの敏捷さは、危険を察知する能力として、雀の役にもたつ。

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