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絵画にみる、亀井堂の歴史。

見出し写真は、現在の亀井堂。

昭和の戦後に再建された姿です。開放的で開けっぴろげです。ほとんどの方は、単なる通路だと思い、地下の亀井水に気がつかないで通過してゆきます。知らない所にきたら、人間は上を見るようです。

亀井水は、平安歌人の短歌を読めば、月を映し輝いていた水鏡だとわかります。つまり、お堂はなかった。野外の祭祀場であった。

#亀井水古典文学選

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最古の建物が確認できるのは、鎌倉時代の一遍絵伝です。

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横にある、アカ井屋形より幅の狭い細長い形は、影向井と亀井の二つの石槽を囲んだだけとわかります。

鎌倉時代、浄土信仰が庶民にまで広がると、四天王寺からは踊り念仏の信仰がうまれました。融通念仏です。一遍も四天王寺から、布教を始めました。

亀井水も、西方浄土から龍神さまが導かれた水と信仰を集めます。二つの石槽を守る必要があったのでしょう。お水は、排水路でいくらでもいただけましたから、支障はなかったと思われます。

次の絵は、江戸時代最初期以前、というだけで、時代不祥です。豊臣秀頼による再建の姿かもしれません。

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江戸時代、17世紀になると、四天王寺住吉大社図屏風絵が、ブームになります。模写や空想で描かれたものが多く存在します。

そうしたなかで、亀井堂のなかの二つの石槽を描くことに主眼をおいた作例があります。そのため、お堂の外観は意図的に簡略化してあります。参拝の老婆と娘が手に経木を持つなど、亀井水信仰の実体験による表現としてきわめて貴重な作品です。

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次は、18世紀初頭、橘守国による、四天王寺伽藍図。普通の画家は、亀井堂の外観を立派に描きます。

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江戸時代後半になると、亀井水の上を板でおおい、中央の穴から水を汲んでいたようです。これも亀井水の保護のためでしょう。下の亀井はまったく見えません。見えていたのは、影向井の先端だけ。これを、亀の頭とする参拝記を、秋里離島、太田南畝などが書き残し、後世の研究者を惑わせます。

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影向井のレプリカである、西門手水鉢。先端のデザインは、確かに、抽象的な亀です。



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