見出し画像

美味しい話 コロナが過ぎたら絶対に行く!!  閑話2   ふるさとの思い出 1960年代 1

東京都中央区晴海 昭和34年生まれ。ふるさとは東京都新富。
10歳の時に新宿区中落合に引っ越しをした。

子供の頃の食の記憶を遡ってみると、一番に思いつくのが銀座で食べた記憶。当時日本初の10階建て公団住宅が晴海に出来た。今は跡形も無いが、当時は話題になったらしい。その公団住宅の3階に住んでいた。
内風呂が各部屋にあって、当時は最新のアパートで人気があった。
公団住宅にエレベーターが整備された最初の建物らしい。しかしそのエレベーター 奇数階しか止まらない。偶数階は奇数階で降りてそれぞれの部屋の近くの階段を上がる。そんな構造だった。

うちの部屋の直ぐ近くの階段を上がると4階に三浦さんの部屋があった。三浦さんのご主人は銀座コックドールで支配人だかをやっていた。だからなのか銀座コックドールにはチョクチョク食べに言った記憶がある。好きだったのはマカロニグラタン。当時グラタンを家で作るってことはほぼ無かったのではないだろうか。外食で食べるものだった。
確か8階ぐらいに野口君が住んでいて、野口君のお母さんがフレンチトーストを作ってくれたのを覚えている。初めて食べたフレンチトースト。

日曜日は外食の日。コックドールの他に覚えている味は、銀座揚子江。ここの冷やし中華、肉団子の甘酢あんかけ、焼き飯が中華料理の原点だった。
食事と買い物を終えた帰り道、ジャーマンベーカリーに寄ってアイスクリームを買って帰るのが恒例だった。モカ味のアイスクリームが好物。ドライアイスが入った箱を持ち帰り、家で食べる。ドライアイスはボールに入れて水をかける。煙がモクモクと出てくるのを眺めるのが好きだった。

故郷の新富町、晴海から近いので良く行った、祖父は鍼灸医、祖母はマッサージ師。新富町の路地にある長屋が住居兼仕事場。その近くの路地にたしか「みかわ」という洋食屋があった。ちょっとうろ覚え。この洋食屋のハヤシライスが好物だった。
新富町には名物の大きな餃子を出す中華食堂があった。銀座の天竜ぐらいの大きな餃子。この餃子もよく食べた。大きな餃子を出す店の名前が思い出せない。なんとなく「華月」みたいな名前の中華料理屋。
新富町には夏はかき氷、冬はたい焼きやらおでんを出す店があった。下町には普通にあった店と思う。
晴海の講談住宅群には当時屋台もやってきた。覚えているのはおでんの屋台。小銭を握りしめてよく買っていた。この屋台のおじさんとは一度バスで隣り合わせに座った記憶がある。何を喋ったのだろうか?おじさんもこちらを覚えていたのだから、おでんを良く買っていたのだと思う。


※写真は(*『現代集合住宅』 ロジャー・シャーウッド編 エー・アンド・ユー 1975より)https://www.google.com/search?client=firefox-b-d&q=%E6%99%B4%E6%B5%B7%E3%80%80%E5%85%AC%E5%9B%A3%E4%BD%8F%E5%AE%85%E3%80%8010%E9%9A%8E

ここから先は

0字
地域で頑張っている人たちと一緒に学びたい。 全国の生産者を知る、食いしん坊の亀田武嗣のおいしい情報を掲載していきます。

年間100日を日本各地に出向いて、地域の課題解決の相談にのっていた亀田武嗣(デジタルメディア研究所・主任研究員)による、足で探し、人と交流…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?