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はじめて自分で勉強したと自負した記憶

はるか昔、中学受験を経て、某女子中学校へ入学した私。
当時、受験することや、受けようとする中学校に対して、ほんとに何も考えていなかったな・・・と思います。

兄が先に中学受験を経験していたこともあり、その流れで私も塾に通うようになり・・・という流れ。

何をしているのかはわかっているけれど、そのことについて深く考えるとか、そういうことはなかったな、と。ただ漫然と流れにのってそこ(塾)にいる、受験勉強をしている、、という状態で、だからなのか、家で自宅勉強をしたという「記憶」がほとんどないのです。夜遅くまである塾だけで気力的体力的に、いっぱいだったのかもしれません。

大人になってから、たまにTVとかで見かけた、難関中学を受験する高学年の小学生が、1日のほとんどを受験勉強に費やしている、、というのを見て、すごいなぁ、小学生なのにあんなに立派に自分で何やってるか自覚して取り組んでいるなんて・・・と、自分の記憶の中の当時と比べて、感心しきりでした。

そんな中で、唯一の自宅学習の記憶としては、漢字です。

漢字の問題集で、最初に全部やってみて、間違えた問題番号に○をしていく。
次は○のついている間違えた問題だけにトライする。また間違えた問題にはさらにその○の上に赤で○をつける・・・
というのを繰り返していって、だんだん間違えた問題をしぼってなくしていく、という方法。
全部クリアしたら、また最初から全部テストしてみて、全問できるかをチェックする。

自分でやってみて、だんだんやるべきことが減っていくのが快感で、この手法で勉強を楽しく取り組めた記憶があります。


私立中学へ入学してから、学校の授業をまじめに聞いて取り組んで、最初のテストでまあまあいい点を取り、クラスの授業でその教科のテスト結果上位を発表されたりして、あれれ?? こんな私が?? みたいな戸惑いを感じました。周りは私より優秀な子が多いだろう中で、なんで私が?? みたいな。

これは、中学最初のまだやさしい範囲のテストだったので、理解するべき内容と範囲が狭くまだ記憶に新しいことで可能だったのだな、と思います。

なので、どんどん授業が進み、学んだ内容、覚える内容が増えていくに従って、きっちり復習する習慣が身についていない私は、だんだんテストの点がとれなくなっていきました。授業の内容は理解しても、復習しないことで、全部忘れてしまうのです。

今さらながらに思い出しました。

塾でも、授業はふんふんと理解して満足するのですが、どうもテストでは良い点がとれない、というか問題の答えがわからない、解き方とかをすっかり忘れているわけです。たくさんの勉強時間(塾)をかけたのに、すべて流れていってしまっている・・・・なんて無駄な取り組みをしていたのだろう。

どうしてそんなことに。

今なら振り返ってわかるのですが、当時の小学生の私には、

「自分からやる」「自分がやりたい」「自分が挑戦したい」

という確固たる自主性の意志が足りなかったのです。
だから、強制力のない塾以外の場所、家では、もう勉強に取り組めなかった。つまり、復習ができない。だからすぐに忘れてしまう。定着しない。

もちろん、やりたい気持ちがなかったわけではないのですが、足りなかった。ある種、他人事のような取り組み方というのでしょうか。
自分のことなのに、自分のことととらえきれていない、自負できていない状態です。幼いといえば幼いのですが、小学生の私はそんな子どもでした。


で、中学生になり、少し、年齢に伴い精神的にも成長し、自主性が芽生えてきました。ちょっと遅いんじゃない?? と思ってしまいますが。。

入学した中学は家庭学習に関してはまったくの放任でしたので、日頃の授業の復習を強制する仕組み、テスト勉強に取り組ませる仕組みなどは何もなかったように思います。(それも時代だったり今昔の話かもしれませんが)
それで、中1の終わり頃、、、、学年で最後のテストに取り組むタイミングで、試しにテスト勉強の全体的な計画をたてて、実行したら消していく、という、

自分で計画し、自分で実行する

という当たり前のスタイルを、初めて自覚して、取り組んでみたのです。
自分なりに、自由に、スケジューリング。

このスケジュール管理が功を奏して、テストでいい点をとる、という結果を手にしました。

なんと、ここで人生初めてといっていいでしょう。

自主的に勉強した! という自負

結果に対する満足感・納得感を得た、のです。


今なら強く思います。勉強する、というのは、そういうことかと。。

学びたい、と思ってやる動機があればなおベストですが、

やらなければならない、という機会(学校の授業やテストのような)であっても、それを自主的に取り組んだ私という自負心が、結果を受け止め吸収する力にもなり、より自分を成長させる糧にまるまるなる、ってこと。

そしてそれが、こうやればできるんだな、という実体験からくる自信にもなりました。この小さいけど大きな経験が、以後、やろうと思えばやればできるだろう、という根拠のある自信となり、何事も自分次第なんだ、工夫次第なんだ、と思うベースになったと思います。

思えば、受験の際の漢字の勉強も、小さいけどプチ体験、プレ体験だったのかなと。自分でこうやろう、と決めて、実際やってみて、効果を実感して、満足できて、楽しくなって。


学校でもたくさん勉強して、時間を費やしているのに、それが流れていってしまったらもったいないです。それをまるまる自分のものにしてしまおう、と思って自分から取り組むことで、その時間が何倍にも自分の糧になる。自動的に。

自主性の力とは、思った以上に自分の強力なサポーターなのだと思うのです。意識して使わないのはもったいない。誰にでもある宝なんですよね。

逆に、勉強することが自主性を育むトレーニングになるっていう見方もできます。やりたくないことをやるに変換するスイッチが、自分にはどこにあるのか、それを自ら探してコツをつかむ。

私の場合は、計画を立てる、表を作る、スケジュール管理、予実管理(予定と実績の管理)、全体把握から個別把握へ、が基本的に好きだったのでしょう。作戦というか攻略感というか。それ自体がまず楽しかった、というのが大きいです。(勉強以前の問題)

なにかそういう自分の好きな楽しいことが、工夫で勉強と結びつけられるといいですよね。


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