穴に入る

 仕事が終わりアパートへの帰途で、唐突に自分が生きていることが恥ずかしくなった。なぜ自分はこんなに堂々と当然のように公衆の面前で歩いていられるのだろう。大した理由はないがどうしようもなく自分という存在が醜いものに思えた。

 穴に入りたい。強烈にそう思った。その時ちょうど空き地の前を歩いていた。俺は迷わず空き地に入り手で穴を掘り始めた。
「恥ずかしい恥ずかしい」

 時間が経てば経つほど恥ずかしくなってくる。一刻も早く穴を掘って入らなければ卒倒してしまいそうだ。

 ようやく体が入りそうなくらいの穴ができた頃には、辺りはすっかり夜になっていた。腕時計で時刻を確かめると19時を回っていた。

 手近にあった板を持って俺は穴に入った。板で穴を塞ぐ。恥ずかしさはいくぶん和らいだ。このまま過ごしていれば落ち着いてくるだろう。こういうときはこうして過ごすのが一番良いのだ。

 そうして、俺が穴に入り普段の自分の言動を反芻してどこに自己嫌悪の原因があるのか探っていると、穴のすぐ近くで地面を掘る音が聞こえてきた。ザシュッ、ザシュッと軽快に掘り進めている。スコップを使っているのだろう。

 やがて地面を掘る音が止み、俺の穴のすぐ横でズルズルと、誰かが穴に入るような音がした。どうやら俺と同じように穴に入りたい奴が来たのだろう。そいつもまた身じろぎ一つせずに自分の内面をみつめているようだ。

 30分ほど経って、俺は隣の人物にコンタクトをとってみることにした。穴の壁を少し強めに叩いてみる。すると、一瞬の間をおいて向こうからも壁を叩く音が返ってきた。どうやら先方も気持ちが落ち着いたらしい。これなら会話もできそうだ。

「こんばんは。あなたも穴に入りたくなったのですか」
「こんばんは。ええ、歩いていたら急に自分という存在が恥ずかしくなりまして。よくあることなんですがね」 

 声の感じからして隣の人物は俺と同じ、中年男性のようだった。俺は彼に親近感が沸いてきた。

「お互いに難儀しますね。私もよくあるんですよ。これといったきっかけがあるわけではないんですが…。別に仕事で失敗したわけでもありませんし」
「実は私はこれから出勤なのですが、特に仕事に不満があるわけではないんです。でも急に、自分の手足が醜く感じて、それから自分がこうして何か考え事をしているということに愕然としてしまいます。一体、自分は誰の許可を得てこうして日々を過ごしているのかと」

 俺たちは意気投合ししばらく話をした。やがて男は会社へ出勤するために穴から出ていった。俺も彼が去ってから穴を出た。隣の穴はすでに埋められている。俺も自分の穴を埋め、家路へ向かった。
 
 

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