呼び出し

   西口に出た。高架通路の下で、二人組の若者がギターを弾いていた。ちょうどイントロか、と思い立ち止まったが、歌は始まることなく終わり、揃ってぺこりと頭を垂れた。二人とも背が高くてきれいな顔をした男だ。放っておいても歌など関係なく女どもが蝟集するだろう。段ボールでできた手製の看板が足元にかけられている。北海道から上京、ミキオとハルマ。まるで昭和の漫才師だ。茶髪の方が、どうもミキハルです、と声をはりあげた。思わず辺りを見渡したが、立ち止まっているのは俺一人だった。俺はミキハルに会釈を返した。

 十五時に蒲田いる? とベトナム女のトュイから昼ごろに連絡が来た。この女は今月でビザが切れるから、帰国するか就職するかの二者択一を迫られているはずだった。その相談だろうか、だとしても俺には力になれない。そんなことは彼女も解っているはずだった。
 俺はアパートで飯も忘れて原稿に向かっていた。飯というより、四時間おきの蛋白質摂取だ。もう三日もジムに行っていない。すっかり筋肉が痩せちまったような気がする。これは精神衛生上、好ましくない。そして一週間も女を抱いていなかった。どうりで鬱屈が澱のように溜まっていくわけだ。これまたちっとも好ましくない。だが、やるべきことをやるか、浅ましく目先の快楽を追うか、三十歳の大人にもなれば考えるまでもないことだ。むしろ刹那的な欲望にさんざ溺れた結果がいまの情けない現状だった。厭というほど学んできたはずなのだ。さっさと抜いて、脳裏に浮かぶねっとりとしたベトナム女の舌遣いを精液と共にティッシュに包んで棄ててしまうに限る。だが俺はそうはせずに、頭をスッキリさせる為に熱い湯を浴びた。プロテインを飲んだ。ボディーバターを擦りこんだ。まだ十三時だった。リュックに原稿や文庫本を入れて、外に飛び出した。駅前の喫茶店でじっくりと書くつもりだ。そうして俺は京急線の西口に降り立ち、令和のサイモン&ガーファンクルの演奏に耳を傾けていたわけだった。

 キリンシティでビールを飲みながら「マルテの手記」を読んだ。一行たりとも頭に入ってこなかった。パンパンに腫れた睾丸にリルケの絶望は理解できない。いまの俺はブコウスキーそのものだ。破滅そのものが快楽なのだ。トュイが来たらまず、腹減った? と優しく訊いてやるつもりだ。たぶん減ってないと答えるはずなのだが、万が一に減ったと言われても、おれは減ってないな、とニコリともせずに言いながら、手を引いて、まだ燈らぬネオンを求めて歩き始めるだろう。さあ十五時だ。二杯目のビールが効いてきてスキニージーンズがはり裂けんばかりだ。ちょうど店を出たところで電話が鳴った。二階にいるらしかった。ペデデッキに上ると、トュイは手すりに寄りかかって淋しげな笑みを浮かべていた。睾丸が縮み上がる心地がした。トュイの傍に、猫が十匹は入りそうなスーツケースが置かれていたからだ。

 旅行ですか、とふざけた口調で言うと、トュイは顔を上げて笑った。莫迦ね、わたし帰ります、きょうで最期ね。何のことはない、土産を買うから検査場まで荷物を持てというのだ。有無を言わさぬとばかりに空港までの切符を手渡された。何時の便? と俺は訊いた。この期に及んでまだ諦めがつかなかった。十七時、とトュイが言った。なら、駅の便所でさっさと済ませようぜ? ブコウスキーならそう言ったろう。俺たちは電車に乗った。
 トュイは窓の外を黙って眺めていた。去年にアルバイトを辞めるまで見ていた景色に感傷的になっているみたいだった。地下に潜ると、黒い窓にトュイの均整のとれた小さな顔が映った。トュイは俺を見ていたが、何も言わなかった。俺も肖像画を眺めるみたいにして、もう二度と会うことのない異国の女の顔を黙って見つめた。やがて国際線ターミナル駅に着いた。
 トュイは食べ物ばかり買っていた。掛け軸なんかどうだと勧めたが、見向きもせずに不味そうな煎餅をカゴに入れていた。まだ時間があったから、ビールでも奢ってやろうかと言ったが、断られた。早めにゲートをくぐって母親に電話したいらしかった。便所に行ったトュイを待っている時に、コートのポケットにあったリルケの小説とミキハルのCDを土産袋に入れた。検査場まで無言で歩いた。話すこともないし、メロドラマのような陳腐な科白も吐きたくなかった。ありがと、とトュイが列に入る前に言った。俺は貼りつけたような笑みを浮かべて頷いた。キッスしないの? とトュイが眉を落として笑った。顔を近づけると、頭を抱えられて舌まで挿れてきた。やはり便所に連行すべきだったかもしれない。ここを離れたら、街に戻って鱈腹呑んでやろう。何度も振り返るトュイの微笑と小ぶりな尻を見ながらそう思った。



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