冥土の土産

 風呂から上がると、親父が換気扇の前で一服しながら俺を待っていた。K、これ地図な、お前のバイトしてる店からまっすぐだよ、橋渡って、少し迂回するけど道なりにいけば着くから、いやァ参ったよ、膝から先が曲がらなくてな、香典はいらないから、線香あげて飯だけ食って、まァ小一時間で終わるよ、地味な格好なら何でもいいし。手書きの地図を受け取ると、部屋に戻って着替えた。黒いセーターに、黒い細身のジーンズ。いつもと変わらぬ格好だった。二千円だけポケットにねじ込んでアパートを出た。
 指定されたマンションまで十五分ほどだったが、ぶらぶらと遠回りして三十分かけた。ベルを鳴らすと、見憶えのある老人が、どうもどうも、と言いながらドアを開けてくれた。すみませんね、わざわざ、どうぞどうぞ。この老人は親父の呑み仲間で、嫁さんが姉だった。この二人が夫婦だったのに初めて気がついた。俺にはどうだっていいことだった。居間には三人の老人と、親父の兄である伯父がいた。伯父は若い頃の漱石にそっくりな顔をしていてどこか西洋的な気品があった。とても山形の奥地にある集落出身とは思えない。その古寺という集落は人口三人だったが、祖父が去年に逝き、その数ヶ月後に隣家の奥さんが亡くなり、いよいよ人口は一人になった。古寺の家は巨大な屋敷のようで、地下室やバーベキュー場もあった。すぐ裏の川では鮭や鱒が釣れ、山には山菜やキノコがあった。だが冬になると二階の窓まで雪で埋まった。屋敷は親父の兄妹の長兄が建てたものだった。その長兄は俺が小学生の時に癌で死んだ。
 三人の老人は祖父の兄妹だった。みな九十近く、やはり病魔や軀を苛む痛みの話ばかりしていた。伯父は相続された、使い途のない土地の話しかしなかった。若造である俺の居場所があるわけもなく、くたびれたソファでフォークナーを読んでいた。彼らにとって俺は存在していないのと同じだった。俺は時折り顔をあげて血の繋がった、血以外の繋がりのまるでない老人たちを眺めた。

 老人たちはノロノロと祖父の遺影のある和室に移り、線香をくすぶらせ、伯父が経をあげた。俺は数珠を忘れてしまったのだが、誰も気に留める者はいなかった。低い声で経が読まれているあいだ、俺は祖父の祭壇に祀られた、漆塗りのお重につめこまれた極上の食物に釘づけだった。煮物、鴨の燻製、天ぷらは大海老、鱧、南瓜、茄子、ぶ厚い刺身は甘海老とブリとトロのような鮪、寿司は蟹、帆立、穴子、艶っぽい女の唇に似た大トロ、そして露の玉を浮かべた大粒の苺。
 お重の横には名簿のような紙が置かれていた。それは死んだ者だけを表にし、没年と命日が書かれている家系図のようなものだった。当然、祖父の名も親父の兄の名もあった。興味深くその紙を見つめているうちに、いつしか経がやんでいた。その死のような寂寞に肩をポンと叩かれたように、俺は紙から顔をあげた。初めて俺の存在に気がついたとでもいうように、老人たちの視線が一斉に俺に蝟集していた。痴呆の気があるらしい祖父の弟の一人が、俺の顔をジッと覗きこんで、まったく違う名前を呟いた。俺は反射的にまた例の紙に目を落としたが、その名は見当たらなかった。紙は下にもう一枚あるようだから、或いは二枚目に刻まれているのかもしれない。我々はまた時間をかけて食事の用意が整っている居間に移動した。

 お重の横に、菜の花のおひたしと吸物が添えられていた。老人たちはもはや酒を嗜むような軀でもなかったから、献杯のビールを少しだけ舐めて、残りは俺と伯父で干してしまった。ビールがなくなると、伯母が棚から焼酎を出してくれた。夜勤のことは考えないようにした。父さんはどうだ、と伯父が訊いてきた。ボルトを抜いたのは膝だけ? 俺も詳しくは知らなかったから、たぶん鎖骨もじゃないか、と言うと、伯母が、そりゃそうよねえ、退院したらすぐ向かうからって言うから、驚いちゃった、と言った。
 桜が開花したというニュースが流れ、また一頻り土地の話になった。俺の記憶にある古寺に、新しい風景が次々と塗り重ねられていった。伯母は忙しげに台所でたち働き、老人たちは和室で四方山話に花を咲かせた。ふと追憶の波が来た。ずいぶん前に、二十年以上も前だろう、俺はこの一室に来たことがある。十歳に満たないくらいだ。正月だった。行きがけにポストから抜いた年賀状を妹とより分けて、このテーブルで熱心に読んでいた。母親もいた。その時の母親はいまの俺よりも若いはずだ。それから、虎河豚の刺身を食った。巨大な円形の青い皿に、薄い白身が花のように美しく盛り付けられていて、真ん中にはタンポポの黄色がポツリとあった。親父が割箸で何枚かまとめてすくったものを、ポン酢につけて、俺に喰わせてくれた。妹の口には合わなかった。俺はこの世で最上のものだと思った。それが河豚を喰った最後の記憶だからか、妙に鮮明に憶いだされる。
 不意に、肩に手がおかれた。老人の手指とは思えぬ、はっとするような力強い重みがあった。俺は真横に顔を向けた。老人が皺に優しくくるまれた眼に涙を煌めかせ、はっきりとまた俺の知らぬ名を口にした。誰なんだよ、その人。向かいに坐る伯父に訊くと、伯父もまた初めて俺の存在に気がついたというような顔をして、それからゆっくり微笑んで、Kに似た人だよ、とだけ言った。へえ、おれ以外にもこんな男前がいたのか。俺がそう言うと、老人たちは一斉にわらった。じゃあその名前、俺が貰っておくよ、Kじゃさ、どうにも締らないもんな。老人たちはポカンとした目で俺を見て、一斉に笑った。そうして俺は小説家としての名前をこの瞬間に決めたのだった。

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