十九歳
憂鬱な冬の時期だった。その頃の俺は女に棄てられた苦しみに喘いでばかりいて、あまり周りが見えていなかった。アルバイト先にいる幼馴染の川栄が、俺の沈痛を見兼ねてか、酒をぶら下げてマンションを訪れてくれることになった。一本筋の通った、情に篤い大男だった。二十四時を回っていたから、川栄はベルを鳴らさずに玄関前から俺の部屋の窓を叩いた。上半身裸のままドアを開けると、お疲れ、と言って川栄が照れたような笑みを浮かべて立っていた。どうした、入らないの? と訊くと、川栄の巨体の背後からひょこりと小さな影が顔を出した。同じアルバイト先にいる、戸田茉優だった。あッと俺は声をあげた。何だよ、いるなら言ってくれよ、下まで脱いでたらどうすんだよ。廊下のガラス戸から明かりが漏れていた。向かいの妹の部屋は閉ざされている。親が珍しく起きているらしい。母親が映画でも観ているのかもしれない。俺たちは他愛なく笑い合いながら部屋に上がった。
川栄はウイスキーを持ってきていたが、俺はまずビールで喉を潤したいと言った。茉優はドアの近くの壁にもたれて氷結を開けた。川栄が俺に気を遣って連れてきたのだろう。茉優は、俺が高校時代にクラスの女と付き合う前に、密かに惚れていた女だった。その頃の茉優には甘いマスクの恋人がいて、童貞の俺にはどうしようもなく、単なるアルバイト先の友人という立場に甘んじるほかなかった。エキゾチックな顔立ちに似合わぬ、優しく淑やかな女だった。俺は早くもビールの甘い酔いが脳髄を溶かし始めるのを感じた。茉優の奴、こんな時間に出て来てくれるんだ、いまは男もいないようだし、おれに気がないでもないらしいぞ……。川栄がブラックニッカの瓶を直に流し込みながら、Kって一途だよなァ、凄いことだよ、と言った。まだ惚れてるんだろ? と、どうやら別れた女のことを持ち出しているようだった。たしかに俺はその事に病んでいるし、川栄はその苦しみを理解して駆けつけてくれたのには違いないのだろう。だがいま、何か極彩色の花が芽吹こうとしているこの場で、正直に未だ女々しく”引きずっています”と茉優に告白するのは、俺としては憚りを感じずにはいられなかった。
若い俺たちはたちまちに酔った。茉優のMDを奪うようにしてコンポに入れ、恍惚としながらミスチルなぞを聴いたものだった。突然、ノックがドアを顫わせた。少し、煩かったろうか? 暗い廊下に母親が立っていた。小柄な俺よりも、頭一つ小さな気弱な母。ガラス戸を開けると、リビングに親父と妹が坐っていた。テレビも消え、陰湿なムードが漂っていたが、部屋で十年来の友と可愛い女とめくるめく酔いが待っていると思うと、そう暗い心もちにはなれなかった。何、どうしたの。俺の声はひどく乾いていた。台所の蛇口の水を、手ですくって喉を鳴らした。ちょっと坐ってくれるか、と親父が重々しく言った。俺は上機嫌に水を差されたようで苛々してきた。母親が蜂蜜色のソファに坐り、親父は絨毯にあぐらをかいている。卓袱台を挟んで妹が頭を垂れていた。俺は親父と妹のあいだにどかと坐った。騒いでいたのを叱るのに、もったいぶることなんざないんだ、大方、向かいの部屋の妹が苦情を入れたのに違いない。父親が口を開いた。父さんと母さんな、離婚することにした。殴りつけられたような、不意の眩暈。酔いのせいもあり、その先の話をあまり憶えていない。俺は腑抜けのように、そっか、そっか、と繰り返していた。思いもよらぬことだった。愚かなことに、友人たちが外から見て言うように仲が良いとすら思っていた。だが、二十年に及ぶ夫婦生活の破綻に、俺はさらに愚かしい見解を導き出していた。当然だ、あんなに愛し合って、あれほど仲睦まじかった俺と”彼女”が別れたんだ、誰だって別れるに決まっているさ。俺は両親の別離ではなく、自分自身の失恋に涙を浮かべたのだった。……
三十分は経ったろうか。俺は廊下に戻り、極彩色の別世界の扉を開けた。二人はまだコンポの前に頭を並べて坐っていた。俺は席を外した弁解を考えていなかったから、川栄と茉優が何も訊かずに無言で音楽を聴いているのに感謝した。さァ、とことん飲もうや、と俺はウイスキーを生で煽った。食道が熱く燃えるようだ。川栄は顔を輝かせて、朝までいくぞ、と太い喉仏を上下させた。茉優も酔ってきたのか、喇叭をして噎せかえっていた。そうして俺たちはしたたかに酔っ払った。躰が熱くなってくる。外気を取り込もうと、窓を薄く開けた。それでも暑く、俺は裸足のまま玄関を出てマンションの廊下で直に冷たい風を浴びた。ブルブルと躰を慄わせ、雨水を排するための溝に小便をした。湯気が四階まで立ち昇っていくのを見て一人でケタケタと笑った。まったくの酔漢だった。ふと悪戯心で、カーテンの隅から部屋を覗いてみることにした。枠から躰を乗り出し、首を限界まで伸ばした。すると、コンポの前、ミスチルの甘い調べの中で、首を蠢かしながらエキゾチックな接吻をする川栄と茉優の姿があった。茉優の顔は俺を向いていたが、恍惚として目を閉ざしているお陰で卑しい覗き魔の姿が露見することはなかった。俺は首を引っ込めて、玄関前の門にもたれかかった。溝から溢れ出た小便が流れてきて、裸の足を濡らした。眼前にある重々しい鉄製のドアに、俺はふと違和感を覚えた。このドアの中に、俺の居場所はあるのだろうか? 急激に酔いが醒めていくのを感じた。冷たいドアノブは、何かよそよそしい、まるで見ず知らずの他人の家に入るときのような億劫さに満ちている。俺はノブから手を滑り落としたかのように腕を垂れ、覗き穴に映る愚かしい十九歳の孤独な俺を見つめたまま立ち尽くすしかなかった。……
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