朝風呂

 骨身に浸みこんでくるような、厭な寒気が眠りを破った。それが内側からくる寒さなのか、つまり風邪のせいか外気のせいか、判然としなかった。十年前にこのアパートに越してくるときに餞別で母にもらった毛布をたぐりよせ、さらに床に落ちていた薄手のブランケットを裸の軀に巻きつけた。ブランケットにはまだ女のにおいと微かな温もりが残っていた。手元の時計を見た。六時二十分だった。それが朝なのか夕方なのか、ボンヤリする頭で考えた。薄くひらいたカーテンの隙間から外の景色を見てもわからない。どちらでも構わないと思った。俺にとっては起きたときが朝だった。
 この部屋はどうしてか冬は外よりも寒くなった。蝉の蛹みたいに窓にしがみつくエアコンに暖房機能はないし、西口のドンキから引きずってきた安物のヒーターは、すぐ目の前に坐して足先をつけていないとロクに暖がとれなかった。俺は苛々として毛布を蹴りはらった。熱い湯で芯まで温まらなければ埒が明かないと思った。

 洗面所はいつも下水の臭いがする。以前にそれを大家に言うと、むかしここは銭湯だったからねえ、と要領を得ないことを言い空虚な眼で見つめてきた。全身に癌が転移していてもう長くないらしい大家の瞳は呑川に浮かぶ魚みたいに白く濁っていて、俺はそれ以上何も言う気が失せてしまった。気づかぬうちに本当に大家は死んでいて、いまは抜け目のなさそうな女房が代わりを務めている。この女房にも無駄を承知で伝えてみると、洗面所で飯を食うわけでもあるまいし、と不機嫌な猿みたいな顔をしていた。それもそうだな、と俺は妙に納得してしまった。
 シャワーの熱さは赤と青の栓をそれぞれ捻って調節するのだが、なぜかいい塩梅になったと思うと、たちどころに凍るような冷水に変わってしまう。給湯器がいかれているのか、熱さは二分ともたなかった。その為に俺の風呂は必然的に烏の行水になるし、女を泊めるのは恥ずかしかった。シャワーヘッドを排水溝に向け、足元の冷水に熱が戻るのを待つために顫えながらうなだれているとき、色々なことを考える。漠然とした希望に溢れた十代や、ただただ無為に過ごした二十代のこと、そして何も無いまま三十路を迎えてしまった自分がいつか手にするはずのことや物について思索して、どん底にいる裸の三十男を励ますのだ。終わらない。終わらない。終わらない。声に出して呟いてみる。俺はこのままじゃ終わらない。…… 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?