美しき茶会

 駅ビルの喫茶店にいた。閉店まで一時間しかないが店は賑わっていた。本屋がすぐ傍にあるからか、殆どの客が一人でテーブルに坐り目を落としている。静かなものだった。俺はカミュの「異邦人」についての記事の続きを書いていた。ああ、ムルソー。幾度この怪人物の中に自分自身を見出したことか。だが潔癖なまでに徹底された無関心さ、それはどこまでも正直でなければ貫けるものではない。俺はだめだ。自己欺瞞はムルソーが最も毛嫌いするものじゃないか。……

 可愛らしいウェイトレスが注文を取りに来る。控えめでウブらしい声。喫茶店の給仕はこうじゃなきゃいけない。俺はラテを、女はミントティを頼んだ。小便色のシロップを垂らして啜る。さあ、黒髪をポニーテイルにまとめた小柄なウェイトレスが俺を見守っていると仮定して、取りかかろうじゃないか。が、読書の連帯により護られていた寂寞はあっという間に破られた。よりによって、俺のすぐ隣りのテーブル席にその二人組はやってきた。艶やかな黒髪をたなびかせた長身の女と、茶褐色のサボテンに豚の顔を落書きしたような男が向かい合わせに坐った。木こりじみた体格の男と、頭一つぶんほどの身長差がある。ずいぶんな不釣り合いだ、おそらく駅前のキャバクラの同伴だろう。小柄な女給が水と伝票を持って来る。長身の女は見た目通りに高慢だった。紅茶のシフォン、やっぱいらない、チーズケーキ、こんな時間にこんなもの食べれない、これでいいわ、小難しい変な紅茶、あんたは? 斜め向かいに坐る木こりを顎でしゃくる、その際に女の横顔が見え、俺は苦笑した。何だ、ババアじゃねえか。ウェイトレスに対する不遜な態度に苛立ちつつ、二人の会話を聞くともなく聞いた。というのも、女の声が莫迦みたいに響くのだ、自分の存在を誇示したいが為に声を張りあげる奴は稀にいる。大抵は思春期のうちに卒業するものなのだが、この女は御歳五十一らしい。木こりが、冗談じゃないんですよ、おれは本気なんですから、と気弱げな声を慄わせた。八の字眉の、殴りつけたくなるような物乞い顔だ。女もそう思ったらしく、横を向いて高らかに舌を鳴らした。肌は化粧で何とか誤魔化しているらしいが、鼻と頰と顎の肉は重力に逆らえていない。どうして十年後なんですか、おれももう若くないんですよ、と木こりは言った。あんた、それ厭味? と女は眉を顰めて笑う。で、あんた幾つだっけ? 木こりは背もたれに躰を預け、しょぼくれて言う。三十八ですよ。女は下品な高笑いを店に響かせた。洒落たポッドに入ったルビー色の紅茶を盆に載せたウェイトレスがびくりと躰を顫わせる。俺は同情の徴として笑みを送ったが、見向きもしていなかった。

 三十八? 見えないねえ、なんか、見た目がまず汚いのよ、わたしなんか五十一だけど、ほら、ダンスとかするしね。たしかに、脚や腰つきなんかはしなやかなのだ。細身の黒いパンツと、革のショートブーツはキマッてなくもない。女が、俺の目線に気づいたようだ。不意に脚を組んで、姿勢を変えて横向きにふんぞり返る。単なる好奇心が熱視線にとられたらしいのは、俺がたまたま脚を見ていたときに振り向いたからかもしれない。声のトーンをさらにあげ、周囲の客の顔の迷惑そうな視線に酔い痴れている。木こりの方は終始敬語だった。顔貌は不味いが、絶対に人に怒ることのない、病的に優男な素人童貞といった親しみやすさを感じる。宝籤が当たれば今すぐにでも結婚してあげる、猫が飼えるから、 と女が言った。木こりはもう籤が当たったみたいに小躍りし、じゃあ一緒に住んでもいいんですか? と笑いながら訊くと、猫と寝るからあんたゲージで寝てよ、と女は笑わずに言った。

  見てみて、ハンサムでしょう? がっちりしてて浅黒くて、脚もあんたと違って長いのよ、弟はサーファーなの、いちばん上の兄は医者よ、東大でてるんだから、あ、これは妹の娘、可愛いくてね、私をお姉ちゃんって呼ぶのよ......。木こりは目を輝かせて話を拝聴していた。次に女は、若いころにいかにいいオトコと遊んでいたか、証拠写真をスライドしながら説明しだした。スペックがちがうのよ、スペックが、女はご自慢の髪をかきあげて浅ましく笑う。二十年、いや十五年前までは男にチヤホヤされたろう。好きなものを奢ってもらえて、女がいま話しているようにサンローランもグッチも愛嬌だけで手にしたろう。残酷なことだか永遠には続かない、美人の季節など花よりも儚いものだ。三十年前の二十一歳のころ、まさかパチンコ屋でアルバイトしている豚に求婚されるとは想像もしていないだろう。しかし、十年後ならしてもいいとは笑わせる。還暦ではないか。木こりは本気のようだ。おおかた、女は常習的に出会い系サイトか何かでカモを引っかけているのに違いない。

   きょうは帰る、と女が言った。わかってますよ、改札まで送ります、と木こりは頭をかいた。きらいなんだよね、この街、わたしには合わないのよ、と女は毛皮のコートを着ながらいう。木こりは頷くと、黄色い紙袋をさしだした。沼津のお土産です、先週、兄と行ってきたんです。四十男が兄弟で旅行、ふつうなら微笑ましく感じるはずだが、この男の場合やむを得なくというか、兄しか誘う人がいないだけだろうと思わせた。女は意外にも喜色を浮かべて紙袋を覗き、一つずつ取り出しては、ふーん、と値踏みをした。男からの贈り物など久しくなかったのかもしれない。すべてを点検してしまうと、女は不機嫌そうに、へえ、と言った。木こりは女の反応を見るなり気味悪くニヤリと笑い、白い封筒を慇懃にテーブルに滑らせた。封筒には銀行の名が書かれてある。女は激怒した。あんた、こんな封筒でわたしに渡すの? 信じられない、ふつう、もっと考えない? 何よ、この汚い封筒。罵りながら、女の干からびたような手がテーブルを蛇のように這い、蜥蜴の舌の敏捷さでコートの下に仕舞われた。木こりが照れ笑いを浮かべて伝票を取ろうとすると、女がそれを制し、いいわよ、コーヒーくらい、わたしが奢るわ、その代わり、帰りのコンビニは払ってよ、あんた、部屋掃除してんの? 黄ばんだティッシュとか落ちてたらあたし帰るわよ、と女は顎を震わせて言う。木こりはがたがたと椅子を蹴りながら慌てて立ち上がり、女のバッグと土産袋を持ってやる。そのとき俺は、木こりの穿いている中学生のようなカーゴパンツが異様に膨らんでいるのを認めた。そのロング缶でもしこませたかのような股間に、女の鋭く光る眼が吸い寄せられていく。結局木こりがコーヒー代を払い、後姿だけは不釣合いなふたりは夜に消えた。案外、騙しているはずの女が、合わないと拒絶したこの街に棲まう日も遠くはないかもしれない......。ねえ、さっきから、何ちらちら見てんの? と向かいで黙々と漫画を読んでいた女が呆れたように言う。どうせあの可愛い店員でも見てたんでしょ?  すっかり冷めた泥色のカフェラテはもう飲む気がしないのだった。そうだなあ、おれは見るべき女を間違えてたな。何を勘違いしたのか、女はコケシそっくりの顔を赧らめ、嬉しそうに笑うのだった。......


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