巣の崩壊

 大学生の頃から部屋にあった群青色の革のソファを棄てた。近所のリサイクルショップで見つけたものだ。湿地に生える水草みたいな色と女体じみた柔らかさ、それと背もたれに点々とあった血飛沫のような染みが気に入って買ったのだった。四畳半には大きすぎたから、その上に布団を敷いてベッド代わりにした。女は狭いと不満を漏らし、二人で寝るときは俺が背もたれを抱きしめるようにして横になって眠ったりした。
 真夜中に、ひとり汗みずくになってソファを運んだ。アパートの二階から駐輪場まで、子熊を抱えている気分だった。リサイクルショップの店主を呼んだのだが、十年前のソファのことなどまるで憶えておらず、こんな物に値はつかないよと苦笑され、逆に運ぶのに金がかかると言われたから売るのはよした。サイドテーブルやアイロン台など細々とした家具を引き取ってもらったのだが、廃品回収業者のようにビニールに乱雑に入れられ、査定もクソもなくトラックの轟音と共に帰っていった。けれど俺は雑然としていた部屋が小ざっぱりしたのが嬉しくて、区のごみ回収を手配してさっさとソファも棄ててしまおうと心に決めたのだった。
 ソファと一緒に煎餅布団としなびた枕も棄てた。あらかじめ買っておいた薄いマットレスにシーツをかけて敷いた。ついでだと思って箪笥の丸一段を占領していた女の服や下着を処分した。女がよく着ていた服だけはボストンバッグに入れて隅に投げた。壁にかけていたブリューゲルの絵と海外女優の写真、それにアルバイトのシフトのほか書き込みのないカレンダーを取り去ると、白いざらざらとした壁紙の広がりがことのほか美しくて愉快だった。

 蝉が騒ぎ始めたのにハッとした。ゴミとそうでないものを分別し、ポリ袋につめ、あるいは競売にかけ、袋が溜まるたびに半裸でアパートの階段を上下していた。最後の一袋をゴミ捨て場に運んだ時には朝六時を回っていた。自販機で炭酸を買って喉を鳴らしてその場で棄てた。陽はとうに昇り、いつものように空港の方から巨大な入道雲がせり出ているのが見えた。その逞しい曇の下を自転車で疾走してくる少女がいた。アパートの斜め向かいにある、古い美容室と畳屋のあいだの猫が通るような狭い路地、その奥に住む少女だった。白い肌と整った鼻梁、冷たい眼と長い睫毛、艶のある黒髪としなやかな肢体、美少女の典型のような彼女は俺の記憶の中ではセーラー服の女学生だった。だがそれはもう何年も前のことだったかもしれない。五、六年前から時間の感覚が狂っていた。大学を出てから生活がまるで変わっていないからだろう。少女はポニーテイルに韓国女のような化粧、白いタンクトップに黒いスキニージーンズといういでたちだった。いまにも踊り出しそうな格好だと思った。露出の高い服装と酒気を帯びた朝帰りからして、碌でもない男の影が仄見えるようで胸が痛んだ。おれなら、もっと似合う服を着せてやるのになァ。迫りくる少女を見てそう歎息したが、考えてみれば朝から半裸で路地に突っ立ている自分こそ碌でもない存在だった。

 部屋の隅にあるボストンバッグを渡すために、女と会うことになっていた。十五時にJRの改札前。眠れる時間を逆算して憂鬱になった。きょうもまた夜勤だった。原稿を持って外に出る。モーツァルトがそうしたように、朝の散歩にひらめきがあることを信じて路地をさまよった。だが糀谷駅を過ぎたころには炎天に辟易し、まっさらな原稿は尻ポケットにねじ込まれ、手には缶ビールが握られていた。バス停のベンチに坐る乞食が俺とまったく同じように、酒をビニール袋に匿したまま呑んでいるのを見て惨めな気分になった。
 ホームセンターは開いたばかりでひと気がなく、黒いポロシャツを着た従業員だけが忙しげにうごめいていた。その中に、学生時代に好意を持っていた一つ上の梶木という女がいるはずだった。十三歳だった俺は梶木に筆下ろしをしてもらいたいがために、違法に映画などをコピーしたものを何度かプレゼントしていたが、誘うこともできぬうちに梶木は卒業してしまった。それでも数年前までは路地ですれ違えば互いに破顔して手をふりあったものだが、この頃はいまの自分の置かれている状況がどうにも恥ずかしく、声すらかけられずに気づかぬフリをして素通りしてしまう。ホームセンターでも俺は梶木に出食わさぬよう慎重にフロアを徘徊し、深々と帽子をかぶりサングラスまでしていた。しかし枕を抱えてレジにいく途中に不意に現れた梶木とすれ違ってしまい、向こうも気づいたのか二秒ほど顔をジッと見られ、いつまでもぶら下げている空缶の入ったビニール袋もちらと見られた気がして死にたくなった。一瞬、名前を呼びサングラスを外して陽気に声をかけようかと思った。それが自然だし、むしろ世間話の折に呑みにでも誘えば案外うまくいくのではないかという考えもよぎった。だが現実の俺は痙攣したみたいに踵を返し、棚に枕を戻すと逃げるようにホームセンターから立ち去っていた。
 太陽は苛烈さをきわめていた。枕がないのは遺憾だがさっさと帰って少しでも眠ろうと思った。音楽でも聴いて気を紛らわそうと携帯を見ると、女から連絡が来ていた。恋人が早めに仕事に出たからもう電車で向かっているらしい。風呂にだけは入りたかったが、どうでもいいような気もしてそのまま行くことにした。京急の駅を過ぎたところで女から、マツエクしてくる、という文面が送られてきた。俺は苛立ちより安堵を感じて、キリンシティにふらりと入ってビールを註文した。原稿はどこかに落としてしまったらしく、諦めて携帯の小さな画面で「青いパパイヤの香り」を眺めて過ごした。どんなに惨めな状況でも冷えたビールは俺の心を豊かにするし、脳髄を痺れさせてたてこめる憂鬱を霧散してくれた。

 女は露店のベーグルを眺めていた。太ったなァ、と声をかけると女は黙ったまま俺の筋肉に触れてきた。すごいね、これだけは続いてるんだ、小説は書いてるの? 俺は曖昧に返事した。ふと、何か大作を書き上げていなければ真に書いているとは言えない気がした。それならば俺は書いていないことになる。いずれにせよ熱のない問いなのだから答えに拘泥する必要もないだろうと思った。そっか、と案の定女は無関心に言った。ミスド食べたいなァ、でもちょっと遠いんだよね。東口を降りて黒服のたむろする横断歩道を渡ってすぐに店はあったが、女は駅を出るつもりはないらしかった。クリスピーも潰れたし、何もないね、パンケーキだってここら辺のはふつうのホットケーキだし、川崎だったらなァ、ロージーズでシェイク飲みたいな、ベリーのやつ、Kはカールスバーグか。女は後ろのスターバックスをふり返ったが、人でごった返していた。おれはシェイクならあの店がよかったな、もう潰れたけど、レトロなダイナーって感じの、ほらパルプフィクションに出てくるシェイクにそっくりでさ。店は気に入ったのだが、二度目の機会がないうちに入道雲みたいなクリームの乗ったパンケーキ屋に変わっていた。どこもかしこもパンケーキとタピオカだ。女は俺の話を聞かずに改札の中にある電光掲示板を見つめていた。もう、行こうかな、帰ってやることもあるし。そう言うとボストンバッグを両手で抱え、案外かるいね、と笑った。
 転勤のために岡山に越すことになり、アパートからスーツケースを片手に出ていった女の姿をふと憶いだした。その後も連休のたびに帰ってきては俺の部屋に泊まっていって、出ていくときには声を殺して泣いていた。部屋の窓から見た、重いスーツケースを引きずって歩く女の侘しい後ろ姿がいまでもはっきりと浮かんでくる。それももう二年前の話で、やがて女は鬱病になり帰京してまたぞろアパートに転がりこんできた。俺はいまボストンバッグを軽々と担ぎあげる女を、深く傷ついていた雛鳥が巣から飛立つ様を眺めるような心もちで見つめていた。じっさい俺たちはそういう関係だったし、女は本当に俺の部屋を「わたしの巣」と呼んでいた。またいつか取りに来るからね、と言って女は改札に消えた。もう女が取りに来るものは一つもなかったが、俺は何も言わなかった。

 このアパートを出たら、何もない部屋に棲もうと思った。俺以外は居心地が悪くなるような部屋がいい。猫路地の少女やホームセンター勤めの梶木が遊びに来ても、性交くらいしかやることのないレンタルルームみたいに虚ろな部屋に。夜勤の時間が迫っていたが、俺は狂ったようにテレビの配線を鋏で切ったり絨毯を裂いてポリ袋につめたりと、未だに自分だけが破壊できずにいる現状の不満足をごまかすために、すでに空っぽになった「巣」を壊し続けて虚しい満足を貪るのだった。


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