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暗鬼

 夜勤明けに、例の火事の現場を通りかかった。そのアパートは帰り道にあった。ひと気のない、ひっそりとした住宅地の路地で、現場は赤いテープが張られていたがそのままの状態で残されていた。住民はもぬけの殻で、片側の一階と二階が焼けくずれて浮浪者でさえ住めぬ状態だった。爛れたドアが横ざまに敷地の入り口を塞いでいるのが印象的で、一階の部屋は剥き出しになっているが、陽の射す朝でも暗渠のようで奥は闇そのものだった。壁も床も家具らしき残骸もみな焦げていて、入るのを想像しただけでも戦慄が走るような禍々しさに満ちていた。二階の庇は煤で覆われ、アルミ製のドアも窓も完全に破られていた。それらの暗い口から、嘗め尽くすような赫い火が轟々と噴き出したのだろう。廊下には残骸と化した椅子のようなものが放り出されている。家主が読書などに愛用していた籐椅子かもしれない。隣りの部屋のドアが、風で薄く開いたり閉まったりしている。その度に虚ろな軋む音が鳴った、それは消え入りそうな悲鳴にも似ていた。俺は焼死体となった住民の一人に黙祷した。路地の奥で、犬を連れ首にタオルをかけた白髪の老婆がこちらを凝然と見ていた。俺は黒いニット帽と、黒いレインウェアと、黒い作業用ズボンと、黒いコックシューズという姿だった。事によると自分が現場に戻った放火魔に見えなくもないと考え、警官を派遣される前に踵を返してアパートに帰った。……

 夜勤が五日続いていた。きょうの相方はいささか風変わりな男で、決まった時間に決まった量の水を飲むことを日課としていて、仕事中であろうとそれは揺るぎなく、そのぶん二時間に一回は放尿に走った。また異常なほど潔癖で、客に飯を提供するとき以外は常にビニールの手袋を手指に嵌めている。理由は訊くたびにコロコロと変わり、それはどんな質問に対してもそうなのだが、どうやら虚言癖があるようなのだ。店の食材を盗み食いしているのが露見したときも、栗鼠みたいに口を膨らませながらあくまで否定し続けたりした。その綾瀬という男が、時間になっても来ないのだ。これは珍しいことだった。金にがめつい綾瀬は、勝手に前乗りすることは多々あっても遅れることだけはなかった。四時間も遅れて綾瀬はやってきた。悪びれる風もなく、店長には伝えたんですがねェ、とむしろ迷惑そうに言った。むろん嘘なのだ。さすがKさん、もう殆ど終わっちゃってるじゃないですか、きょうぼく来なくてよかったかなァ。綾瀬はペットボトルをへこませながら喉を鳴らして水を飲んだ。あれ、と俺は反射的に声をあげた。それ、どうした? 水を持つ綾瀬の両手が、包帯でグルグルに巻かれていたのだ。 ああ、いやァ、と綾瀬はうがいでもするかのように水を頰から頰に繰り返し移した。その塊が喉を通るのを俺は見守るしかなく嘔気がした。油を被っちゃったんですよ、ぼく、実家が天ぷら屋なんで。そう綾瀬は真顔で言った。あれ、百姓じゃなかった? と訊き返すのは不毛だった。ぼくそんなこと言ってないですよ、と白を切られるのが落ちだし、実際、この男の実家が農家だろうが天ぷら屋だろうが俺にはどうでもいいことだった。

 ちょっとお花摘んできます、と鼻につく言い回しを残して便所に向かう綾瀬を見ながら、真新しい包帯の白さが頭を離れなかった。あれだけゼオミットで護ってきた大事な手指が、いまあの清潔な包帯の下で爛れているのだろうか、そう考えた。水膨れと赤い湿疹、ジクジクと滲み出る黄色い膿、まるであの鉄製のドアのように焼き爛れて……、思考ははたと止まった。俺は閉ざされた便所の汚い戸を見つめた。俺は自分の小説脳を呪わしく思いながら、懸命に想像をやめようとした。白昼、轟々と燃えさかるアパートの前に佇む綾瀬の姿、逃げようとする住民の声を扉越しに聴きながら両手で熱いドアノブを握りしめる綾瀬のわらい顔、冷たい便器に坐って両の手に巻かれた包帯を恍惚の表情で眺め射精する綾瀬、そんな想像を追い出さなければならない。油を被っちゃったんですよ、ぼく、実家が天ぷら屋なんで。何もかもを莫迦にしたような胴間声が、夜勤を終えまっすぐ家に帰りソファに倒れ込んだ今も、まだ鮮明に耳の奥に残っている。……

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