或る朝

 改札を出た。人がごった返していた。彼らはそれぞれの社会に向かって驀進していた。立ち止まりそうになるのを堪え、どうにか人波に乗ろうとしたが、鞄を肩から下げた女にぶつかってしまった。反射的に吐いた謝罪は音になって出たか覚束ない。ただ女の舌打ちだけが、喧騒の中いやにはっきりと鼓膜にはりついた、というよりも、脳髄にしみこんできた感じがした。思わず女を睨みつけた。その視線の先に、二人の精悍な警官が立っていた。警官は揃っておれを見ていた。二人と同時に目が合うような錯覚がした。レインウェアのポケットに手を突っ込んで警官のあいだを通り抜け、眼前の喫茶店に人だかりができていたから、何となくその列に加わった。人々と共に香ばしい朝の匂いの中にいるだけで、自分が真っ当な社会の真っ当な人間として存在している気になれた。ふと背後をふりかえると、先ほどの警官がジッとこちらを見ていた。何事かを囁き合っているようだった。おれは不愉快と焦燥に眉をしかめて彼らを見返したが、すぐに身をひるがえして東口に出る階段を駆け下りた。

 駅前には朝の光があふれていた。夜に物騒な黒服たちがたむろしていた横断歩道前は、いまはただ吐瀉物の染みがあるだけだ。歓楽街の通りを、駅に向かう睡たげな会社員たちと逆行した。ふと、寂れたビルの薄暗い階段から、女学生の制服に似た、やたらに露出の多い衣装を着た若い女が降りてくるのが見えた。路地にでた女に向かって、グレーの背広を着た男が自販機で購った缶コーヒーを放った。女はそれをリボンのついた胸の谷間にさし込み、ウインクをして悠揚に階段に戻っていった。男は何事もなかったかのように、下水の坩堝に帰るドブ鼠の行軍を思わせる労働者たちの群に加わった。おれはビルの中の通路に入り、隣街にある映画館の宣伝用ポスターに手をつきながら烈しく嘔吐した。涙が滲む目を思わず剥いたのは、スニーカーを濡らす吐瀉物の中で、ボウフラに似た虫が阿鼻叫喚のごとく沸きかえっていたからだった。錯覚だろうか? それとも、たまさか虫が沸いていた所におれが吐いたのだろうか? 自分の腹の底に蠢く無数の蛔虫を、その親玉の存在を意識しながら、フラフラと明るい往来に出た。

 口の渇きが不快だった。コンビニでビールを買い、人通りを避けて路地に入った。安ホテルの裏口から、ネパール人らしい浅黒い肌の青年が眩しげに目を細めながら現れ、ママチャリを押して先を歩く年増の女を急ぎ足で追った。二人はしばらくおれの前を無言で歩いていたが、巻貝型の滑り台がある公園にさしかかると、ふいに女が青年を手招きした。従順な奴隷のように近寄る青年を手のひらで止め、その影みたいに濃い眉に接吻をしたきり、女は物も言わずにママチャリに跨って環八の方に消えた。京急線の駅の方に歩き出した青年の褐色の頰が濡れて光っていた。泣いているのだった。おれはどちらの道に向かうのも厭になり、公園に入った。どのベンチも浮浪者の寝床になっていて、巻貝には一番の権力者が棲んでいるような公園だった。奥のブランコでは高校生が何かの儀式みたいに輪になって一服し、船のアスレチックには子供連れの主婦が数人いて、そのうちの一人は中学の同窓生に似ている気がした。ぬるくなったビールのせいでゲップが漏れ、それが思いのほか響いて皆がおれをふり返った。寝ていた浮浪者までが身を起こした。主婦はやはり2組のMだった。音楽教師との援助交際で退学になった日から、しばらく自瀆のお供になってくれたM。彼女が幸せならこんなに嬉しいことはない。微笑みかけようとしたが、彼女は床を這う黒虫を見るような眼でおれを見ていた。ぶら下げているロング缶のビールが、実は発泡酒であること、それさえ責め立てられているような気がして、おれは逃げるように公園を後にした。

 この街は東京湾に繋がる二本のドブ川に囲まれている。どちらの川も上流こそ清澄で生物も豊饒なのだが、下流にゆくほど排水や塵芥に汚染されてゆき、どこからか悪臭漂うドブ川の様相を呈してくる。それは人間も同じで、この最下流の街には乞食に不具者、素性の知れぬ外国人、夥しい貧乏老人、愚連隊やヤクザ、中国人の街娼、指名手配犯までが流浪のすえに漂着する。物騒な事件は後を絶たず、未明からひっきりなしにサイレンが鳴っている。おれはまだアパートに帰らずにぶらぶらと歩いていた。あてもなく、夜勤までの時間を無意味に空費しているのは自分でもわかっている。菖蒲橋を渡った。或る小説家が、この橋に不吉を感じると書いていた。曰く、「殺め橋」。何のことはない。どこだって人は死んでいるじゃないか。ニュースでは、先日の台風でドブ川が氾濫したと伝えていた。比較的上流の高級住宅地にドブと糞尿がなだれこみ、殺め橋の架かるこの街が平穏無事なのは皮肉だった。アルバイト先の同僚がその事について、ザマアミロ、と唾を飛ばして快哉を叫んでいた。そのままドブ川沿いを歩いて、便所脇の暗い地下通路から西口に出た。

 乞食がたむろしていた円形広場が区によって撤去され、だだっ広い空虚だけが残されていた。中心に据えられた樹の傍で酔漢が大の字になって鼾をかいているのを、交番の警官が川に浮いた鰡の死骸でも見るような眼つきで眺めていた。アーケードで立ちんぼをしていたらしい中国女が寄ってきて、馴染みの客だったのか、金切り声をあげながら介抱を始めた。腕をとり、上半身を起こそうとして、男はゴロリと転がって横向きになった。女は交番を背にしてうずくまり、男の背広から馴れた手つきで財布を抜いた。片手で男の軀を揺さぶりつつ、札だけを盗って胸元に突っ込むと、財布を背広のポケットに戻してやった。交番には別の酔いどれが怒鳴り込んでいて、もう一人警官が出てきて口論になっていた。中国女がポルノビデオ屋の裏路地に消えるのを見届けてから、おれはアーケードに入った。顳顬が痛んできたから布団で横になりたかったが、ホアキン・フェニックス主演の新作映画をふと観ようと思った。悪意の発露に興味があった。おれは何かに追い立てられるように足早に薄暗い商店街を歩いた。しかし映画館は先月に閉鎖されていて、閉ざされたシャッターの前には、布切れにくるまった老人だけが転がっていた。

 レインウェアのポケットに両手を突っ込むと、百円ライターとレシートと小銭と烟草とコンドームが二個出てきた。烟草は封が乱暴に開けられ、中身はほとんど折れていた。パチンコの景品だというこの烟草を、女は幾度も自分で火をつけて寄こしてきた。噎せかえる三十男を見るのが愉快らしかった。下らないと思いつつ、一つの目的のために悦んで道化になった。さんざ酒を呑ませ飯を食わせた挙句に、帰って寝るとのたまう女の尻を追い、電車に乗った。己の浅ましさに暗鬱となりながら、女に付き従って大森海岸駅で降りた。女がシャワーを浴びている時も、クネクネとおれの上で踊っている時も、隣りで不味い烟草をふかしている時も、おれは帰りたい帰りたいと願っていた。叶った時には空は白んでいて、咎めるような光が眼に痛かった。女は腹が減ったとごねたが、頑なに断って駅に向かった。混雑する電車に揺られている時も、俺は帰りたい帰りたいと念じていた。野良犬のように街をうろつき廻っている今もそうだ。帰りたい、帰りたい。嗄れた声で呟いてみる。だがおれの軀はアパートからも駅からもすっかり遠ざかり、未だ昇りきらない陽光から逃避するように、吐瀉物が乾きはじめた路地をさまよい続けていた。……

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