闇と鉄

    牛みたいだね、と二週間ぶりにアパートにやってきた女が言った。顔も丸くて、髭も剃ってないし、どうしたの、おじさんだよ。俺は寝間着のままソファにもたれかかって思索に耽っていたのだが、その言葉に反応して自分の軀にふと目をやった。いや、見るまでもなかった。腹は胸のすぐ下からパンパンに迫りだし、顔も酒席のあとで浮腫んだように膨れ上がっている。何、ちょうど来月から減量しようとしてたとこだから。と俺は言って、女の買ってきた芋餡の入った鯛焼きを三つ平らげた。風呂の前に体重計に乗ってみると、七十四キロあった。三年前に減量しようと思い立った時は六十七キロだった。二十二の頃は四十八キロで女と見紛うほど細かったから、当時でもよほど肉付きがよく見えたものだった。二十七になって、夜な夜なランニングをし始めた。六郷土手をグルリと廻ろうと考えていたのだが、最初はアパートから土手に辿りついた時点で心臓がはち切れそうに痛んで駄目だった。慣れてくると自然と肺も強靭になり、触発された女もウェアを買いこんで横で並んで走り始めたりもした。ペースが上がってくると、女は自転車に跨り、たまに俺と代わって白い息をふうふうと吐いて風を切った。ポニーテイルにまとめた髪がなびき、露わになった白い頬や首筋を眺めて走る日々は悪くなかった。鵜の木の図書館まで行ったり、真夜中の川崎大師に乗り込んだり、羽田の国際線まで突っ走ったりした。帰りはダラダラと他愛ないお喋りに興じながら歩いたものだった。

 元々十年近くバスケットボールに励んでいた身ゆえ、半年後には女の漕ぐ自転車のペースでは追いつけぬほど俺の脚は疾くなっていた。体重も五十七キロまで落ち、薄い皮膚を透かして腹筋が浮き出るまでになっていた。俺はコースを絞ることにして、土手を六郷橋から大師橋へと廻り戻ってくるのがお決まりの径路となった、そんな或る夏の夜だった。六郷橋を渡り、家々の迫る砂利道を走っていると、工場からの臭気が鼻の奥にねっとりと忍び込んでくる感覚があった。発酵させたトウキビの匂いだと聞いたことがあるが、頭が痛くなるような、ドブ川よりも厭な匂いだった。水門を迂回する路でその匂いは一層強烈になった。息をつめて顔を月に光る川面にそむけると、下の叢に何やら小さな焔のようなものがちらついているのに初めて気がついた。花火かとも思ったが、暗闇にすっかり馴れていた視界に人影は映らない。放火か、狐火か。恐怖よりも好奇心がまさり、俺はジリジリと草の生えた坂を下っていった。まず目に入ったのは、バスケットボールだった。モルテンの、ざらついた革のボールだ。花束や、衣装ケースのようなものも見えた。明るいのは火ではなく、偽の蝋燭だった。まわりこむと、一枚の引き伸ばされた写真が斜めに置かれてある。まだ記憶にあたらしい、柔和な笑顔を浮かべる少年の写真だった。……

 記憶では、現場はここらではなかった。凍える夜に、三人の少年によってカッターナイフで四十三回も切り刻まれた挙句にドブ川に投げ棄てられた少年、自力で陸に上がり叢を這って生きようとし、ついに息絶えたあの十三歳の少年……。俺は暗闇の中で戦慄を憶えながら一人立ち尽くした。透明の衣装ケースの中には手紙の類が入っているようだったが、通りすがりの他人でしかない俺が好奇心で開けるのは憚られた。事件からだいぶ経っていたはずだが、花束は古いものではなく、誰かが頻繁に手入れをしている形跡がみられた。俺は叢に坐りこんで、思索に耽らないわけにはいかなかった。もしも自分が夜分にランニングをしていて、少年たちが諍いを起こしている現場に遭遇したら、如何なる行動を起こすのが吉か。まず、叫び、警察を呼んだと忠告し、それでもやめなければ石でも投げつけるか。だが捕まって、相手が刃物でも持っていれば、あっという間に刺し殺されてしまうだろう。圧倒的な腕力も格闘術も持たない、畢竟俺は無力な一青年でしかなかった。不条理に対抗できるのは、さらに圧倒的な力を持つ不条理だけなのだろうか……。俺は自分のガリガリに痩せ細った肉体を顧みて、妙に恐ろしい心もちになった。俺がもしあの時に現場に通りかかっていれば、少年は冷たい死骸にならなかったのじゃないか。繁華街にいるヤクザや愚連隊ならまだしも、非行少年ていどなら、筋骨隆々な大人が裸で突っ走りながら恫喝すれば或いは驚いて逃げてくれたかもしれぬ。とはいえそれも根本的解決には遠いその場凌ぎに変わりはないのだが、血を流し恐怖と寒気に慄えていた少年にとって、不意の助けは一縷の望みであったに相違ない。……

 俺はその夜から、土手だけじゃなく、ひと気のない路地を走り廻ることにした。腕や足に、強烈な光を放つバンドを巻いて走った。気まぐれな夜勤者が総出で街をパトロールしたら、あんがい夜道の犯罪もすっかりなくなるのじゃないかと思い一人でわらった。さらに俺は街娼がはびこる乳房広場の前にあるジムに入会し、朝晩二度のウエイトトレーニングにも精を出し始めた。俺はいつしか三島由紀夫と同じ鉄の地獄に入り込もうとしていた。有酸素は育った筋肉を削るからといって、肝心のランニングもやめてウエイトにすべてを注いだ。三年経ったいま、体重は七十四キロを超えている。筋力と共に脂肪も蓄えられ、愚鈍なドワーフのような軀つきになってしまっていた。非行少年に嗤われる軀だ。女の言葉で、ふっと三年前の夏の夜を憶い出したのだった。あれからしばらくして、殺された少年の祭壇は撤去された。月日と共に、あの時に坐り込んで考えたことまでが撤去されてしまっていたらしい。洗面所の鏡の前に立って、まず無精髭を剃り落とした。コンタクトを入れ、全身に熱い湯を浴びて脂をぬぐった。きょうからまた、パトロール再開だ。街での非行はこの俺が赦さない、路地から路地へと野良犬のように執拗に走り廻って逃さない。すると春になる頃には、脂肪がすっかり削れて筋繊維と血管が薄い皮膚の上でピリピリと顫えているだろう。そうなればきっと、何かいいことが起こるに違いない。闇と鉄で鍛え上げられたこの軀を、非行少年の相手などではなくもっと有意義に使える夜が来るに違いない。畢竟それだけが俺の希みだった。……


#小説 #文学 #退廃 #日記 #エッセイ

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