雨音

 朝から雨が降っている。俺は雨音だけが聞こえる静かな部屋で在る短篇小説にとりかかっている。頭が重かった。きのうは、一日じゅう寝ていた。数えてみると、十七時間くらい睡ったらしい。時間を無駄にしたとも思うが、たぶん必要だったのだろう。百円の小説を書いている。たかだか百円の値でも、読んでくれる人は少ないだろう。にしても、百円、か。一編の小説を生むのに、どれだけの時間とエネルギーを費やすことか。それが、今どきの自販機では缶コーヒーすら買えぬ百円とは何たる不条理なことか。アルバイトでさえ、下手すりゃ五分くらいで稼げるじゃないか。怖ろしいことだ。考えるだに怖ろしいことだが、文学、殊に純文学が商業性を気にしだすのは”美しくない”という思想がある。作家たるもの、バルザックが創りあげた高潔なるダルテスのようにあらねばならない。そんな理想がある。リュシアン・ド・リュバンプレみたいに、堕落しきった俗物と化して「幻滅」されたくな。そんな自尊心もある。だが、誰が何者でもない男に幻滅したりする? 自分以外に、いったい誰が?

 電話が鳴った。女だった。ねえ、ポンちゃんは? 俺は沈黙した。それこそ死のような沈黙。もういないの、わたしのポンちゃん。女の鼻先が赤らんでくるのが見ずともわかる。桜の下だよ、桜の樹の下には金魚の死体が埋まっている、安吾みたいだろ。啜り泣き。俺を責めたてる言葉が聞きたかった。だが聞こえてきたのは、ありがと、きれいにしてくれてありがと。それだけだった。唐突に画面が暗くなり、虚ろな自分の影が映った。

 

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