高嶺の花


 第一京浜を歩いていた。夜更けまで川崎で飲んでいて、女だけを電車に乗せ、酔い醒ましがてら歩くことにしたのだった。別れ際に愚図つくのが厭なせいもあった。もうすぐ埃っぽい街に朝日がふりそそぎ始めるころだ。いつもなら水門通りに入るのだが、信号が合わなかったからそのまま第一京浜沿いに渡った。人だかりがあった。隣接されたコンビニや漫画喫茶から、巣から這いでる飴色の蟻の群れように薄汚い格好の連中が出てきてはパチンコ店の列に連なってゆく。俺は何となく立ち止まり、路の亀裂に入りこんだパチンコ玉を一つ拾ってジャンパーのポケットの中で弄んだ。ふとダミ声が上がった。タオルを首に巻いた中年男が、この薄ら寒いなか団扇を片手に幸福そうに哄笑していた。ヤニ色の歯の男が身ぶり手ぶりを交えて笑いをとっているらしかった。怖くないのだろうか、と思った。いや、或るギャンブル狂に訊いたことがあった。おれたちはすでにもっと大きなものに負けているんだ、とその男は賭博者を代表するような口調で言った。人生の敗残者たるおれたちだぜ、ギャンブルで負けるくらい屁でもねえ、どっちでも同じなんだよ、勝った金もどうせ注ぎこむんだから、つまり勝っても地獄負けても地獄よ、なァに、ギャンブルやらなくたってこの世は地獄だ。……

 不意に幼い記憶が蘇る。俺は糀谷商店街の路地にあったパチンコ屋の入口に坐りこんでいる。まだ小学生にも満たない齢だ。地面に這う虫か何かを捜していた。いや、落ちているパチンコ玉を捜しているのだった。冷たい星のように美しい銀の玉。彎曲した自分と空が映り込んでいるのを眺めるのが好きだった。思い出したように、店に入る。烟草の匂いと物凄い騒音に気圧されたのを憶えている。怖くはなかった。俺は何ものも怖くなかった。母と一緒にいた。あの頃の母は、まだ烟草を吸っていた。烟草をふかす母の姿は悪くなかった。目を細めて、唇を窄ませたりして、わりにキマっていた。今の俺よりも、四つも五つも若い。いま手篭めにしている小娘の一人と変わりなかったのだと思うと、不思議な気がする。咥え烟草でハンドルを廻していた母を見上げた記憶が薄っすらとある。悪い記憶じゃなかった。九十年代の、人々が今よりも少し自由に生きていた、むしろ好ましい情景として浮かんだ。だがいまの虫も殺せないような母とは、まるで別人だというような感じがする。あの頃の母は荒々しい女の若さみたいなものがあった。
 そのパチンコ屋は、俺が高校に入ったときには抜け殻になっていて、いつの間にか精肉店に変わっていた。

 喚起させたのは、女だった。ヤニ色の歯の男の隣りに、アディダスのジャージを着た男が怠そうに蹲みこんでいた。襟元に悪趣味な金のネックレスが光っていた。女を連れていた。鼠色のトレーナーと白いスウェットを履いていて、安い染め粉で色を抜いたような、鍍金じみた髪の毛を垂らしている。肌は白かった。二人は今しがた性交をすませてきたというような、生々しい生活臭を漂わせていた。母と似ても似つかぬこの見窄らしい女を見て、どうして幼い記憶を憶いだしたのだろう? 女が俺を見たが、愕いたような顔をしてすぐに逸らした。男の方がしゃがんだまま首だけ廻し、睨みつけるように俺を凝と見た。このまま目を合わせていると、忌々しい諍いが起こりそうな予感がした。知り合い? と男は女に訊いた。女は首を傾げた。怯えたような顔をしていた。俺は不意に気がついて、どうしてか殺意のようなものが漲って男を見据えた。男は怯んだように身をよじらせた。全身の筋肉が忿怒に盛り上がる感じがして、金のネックレスのぶら下がった鳥のように細い首をすぐにでもへし折りたい衝動が起こった。路地を引き返して、信号を待って水門通りに渡った。男のひりつくような視線を背中に感じていた。俺は歩きながら、自分の元から溢れだすパチンコ玉を追うように、そしてこれ以上とり零さぬように、懸命に遠い記憶を辿りはじめた。……

 路地に転がるパチンコ玉を拾い集めていたあの頃、俺は研究所という名のついた幼稚園に通っていた。小学校に上がっても、週に一日か二日は園に出入りしていた。園長が塾を開いていたのだった。教室は入り口のすぐ傍にあった。引き戸を開けて、たいていは最後列の端に坐った。授業の内容は憶えていない。ただ終わりに課題があって、終えた者はクッキーを二枚もらえた。クッキーは細長い箱に入っていて、早いもの順で抜いていくのだった。それは決まってバターとチョコチップの組み合わせで、俺は二枚とも大好きなバタークッキーを択んだものだった。一枚は帰りながら齧り、一枚はティッシュに包んで鞄にしまって家で食べた。

 女と、橋本希と話した日のことはよく憶えている。俺はやはり最後列の端にいて、真面目に授業を聞かずに隣りの友人とオウム真理教の唄をふざけて口ずさんでいた。それは夏に処刑された麻原の名を繰り返すだけの単調で奇妙な唄だった。園長を憚って小声で唄っていたのだが、笑いが漣のように伝染してしまい、園長の眼鏡の奥が光ったときにはもう手遅れだった。俺と友人は園長の巨大な手のひらによって頭を掴まれ、すり潰すように頭蓋同士をぶつけられた。骨が擦れる音がした。羞恥と激痛で涙が浮かんだ。園長は無言で教壇に戻った。その日はむろんクッキーを貰えなかった。手早く課題は終えたのだが、子どもながらに自粛したのだった。箱が空になるまで教室に残り、絵か何かを描いていた。絵を描くことはわりに好きだった。肝の座っていた友人は抜け目なくクッキーを手に先に帰っていた。やがて箱は空になったらしく、テーブルが片づけられた。俺は課題の紙を提出して引き戸を開けた。

 教室のすぐ目の前にある、園長を模したらしいゴリラの遊具に橋本希は腰かけていた。すらりとして背が高かった。誰よりも小柄だった俺より二学年は上に見えたろう。むろん見憶えはあった。いつも教室の中心らへんを陣取り、男女の取り巻きがいた。やはりその中心で、橋本希はツンと澄ましていた。オウムの唄のときも、ちらと見た橋本希はクスリとも笑っていなかった。橋本希はいくぶん高圧的に俺を見下ろしながらクッキーを頬張り、脚でリズムをとっていた。話したこともなかったから、俺は何も言わずに立ち去ろうとした。
 「ガーコがね、元気ないの」
 か細い声だった。独り言なのか、自分に向けて言っているのか、咄嗟には判りかねるほどだった。俺はピタリと足を止めたが、何も答えなかった。足許の土に、誰かが落書きしたらしい相合傘の跡があった。どちらの名前も知らなかったが、何となく気に入らず踏みにじった。あ、ひどい、と橋本希は可笑しそうに言った。ガーコがどうしたの、と答えた俺の声は、蚊の鳴くようなものだった。鵞鳥など興味がなかったが、ゴリラから飛ぶように下りて奥の小池に向かう橋本希に、俺は子分さながらについていった。果たしてあれは鵞鳥だったろうか。記憶のなかのガーコは鶴や鷺のように優雅で巨大な鳥として存在している。

 橋本希の足取りもまた優雅で軽やかだった。明らかに他の同級生より大人びて見えた。鵞鳥の檻の前で、橋本希と何を話したのかは憶えていない。俺は亀ばかり見ていた気がする。亀にもさして興味はなかった。土中や石の下にいる、鋏虫やミミズ、だんご虫の類が好きだった。やがて橋本希は檻から離れた。俺の存在を忘れているように見えたが、帰り際に橋本希はバタークッキーをくれた。いつもこれだよね、好きなの? どうしてか俺は何も答えられなかった。何となく、バツが悪かった。これ、と代わりに差しだしたのは、ポケットに忍ばせていただんご虫だった。橋本希は覗きこむように俺の手のひらを見た。髪が頰に触れた。だんご虫は丸まることなく転がり出ようと足掻いていた。かわいいね、と言った。俺は頷いて、だんご虫を地面に転がした。愕いたのかこんどは丸まった。門の前に来た。おれのこと、知ってたんだ? と訊いた。橋本希は首を傾げた。何だ、知らないのか、と失望と恥を感じた。いつも虫ばっか探してる、と少し経ってから橋本希が言った。嬉しかった。末端の席でオウムを唄うような自分が、この大人びた橋本希に見られていたという事実が嬉しかった。

 三年に上がって、俺は塾を辞めることになった。バスケットボールのクラブに入ったからだった。あれから橋本希と話すことはなかった。目が合っても挨拶すらしなかった。死にかけの鵞鳥を見にいくという冒険、あれは白昼夢のようなものだ。塾を辞めた日、俺は誰よりも早く課題を出した。そして教室の中心に行き、橋本希にクッキーを二枚ともあげた。キョトンとした顔をしていた。取り巻きの奴らが敵対心みたいものをもって俺を見ているのを感じた。勇気はいらなかった。当時の俺には怖いものなどまるでなかった。じゃあ、と俺は言った。おれ、きょうで最後だから。誰も何も言わなかった。橋本希は首を傾げ、怯えたような笑みを浮かべた。髪がさらさらと流れた。俺は教室を出て、二度とふり返らなかった。感傷を知るには、あまりにも幼すぎたのだった。

 鵞鳥のガーコは、とうの昔に死んでいるだろう。中学二年のときに、園長がカウンセラーとして訪問してきたことがあった。初日に挨拶をかねて、校門で生徒の登校を迎えていた。俺が頭を下げて横切ろうとすると、K、大きくなったじゃないか、と声をかけてくれた。数年後に園長はリンパ癌で亡くなった。その二年後、大地震が東北を襲った月に、最後の卒園式を終えてから研究所は閉園した。俺が通りがかった時には、橋本希が腰かけていたゴリラの遊具はなく、キリンのような古いショベルカーだけがポツンと夕陽に晒されていた。
 あの女、今ごろパチンコ玉を見て、だんご虫を想起しているかもしれないぞ。路地を歩きながらそう思った。いや、憶えてもいないだろう。あれは高嶺の花だった。手の届かぬ孤高の女だった。鼻の奥に甘い感傷の疼きがあるのを感じた。俺がこの堕落した生活から這い出ようともがくように、或いは二人で見つめた手中のだんご虫のように、橋本希も醜く足掻くだろうか。そうなればいいと思った。ジャンパーのポケットから出した銀色の玉の表面に、ふとガーコの檻の前に佇む橋本希の凛とした姿が浮かんで、たちまちに消えた。……

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