煤の雪
夜勤を終え、ジムで汗を流した。ここ一週間ほど、エルヴィスを見ていなかった。最後に会ったとき、エルヴィスは突然シャツを脱いで、鏡の前でポージングをし始めた。還暦を超えているとは思えぬ躰だったが、長年育てた脂肪の澱が腰のあたりにしぶとく残り、余った皮も垂れていた。夏までに蟹のような腹筋になりたいというエルヴィスの希望は絶望的に思われた。俺は、まだ冬が始まったばかりだから、とお追従のようなことを言ったが、エルヴィスは、春を待つまでもないよ、と笑って床に転がりプランクの構えをつくった。ピクリとも動かぬそれは巨大な虫の死骸のように見えた。エルヴィスの眼中にすでに俺はいなかった。トレッドミルで走るショートパンツの女の尻に釘付けなのだ。それがエスヴィスを見た最後の姿だ。……
オーケーで買い物をして、水門通りを抜けようとした。ヘリが上空にいるのは気づいていた。この街では報道ヘリなど日常茶飯事だ。だが、十数台の消防車が一斉にこの通りに詰めかけるのは尋常ではない。煙は見えないが、煤のにおいがした。野次馬が犇いていて、自転車は通れそうもなかった。隙間から通行を禁ずる蜂色のテープもちらと見えたから、魚鈴を折れて路地に入った。新聞紙を燃やしたカスみたいな灰が雪のように舞っていた。きのうは春みたいな陽気だったのに、きょうは本物の雪が降ってもおかしくないようなひりつく寒さだ。土手や駅前や公園や神社に棲まう浮浪者たちが耐えかねて連帯し、無作為に一軒の家を犠牲にして暖をとっているのかもしれない。どうりでこの季節は火事が増えるわけだ。火を囲む野次馬たちは、目を爛々と輝かす悪魔的な乞食の群れだったのだ。……
風呂も忘れて眠ってしまった。コンタクトレンズもテレビもつけっぱなしだ。飲みかけの缶ビールが倒れて、灰色の絨毯を濡らしていた。また居候の女にどやされるなと思った。ゴミも出し忘れ、袋から溢れ返っている。冬は虫が沸かなくていいや、と俺は暢気に考え、ふとテレビにかすれた目をやった。住宅密集地で木造アパートが焼ける、六十代と思われる男性が焼死体で発見。入り組んだ路地にあるアパートゆえ、十八台の消防車やポンプ車をもってしても消火活動は難航を極めた。俺は瞬時に、プランクの構え、あの浣腸を待つ性倒錯者のような格好のまま黒焦げになったエルヴィスの姿を脳裏に浮かべた。空港で警備員として数十年働き、いまは無職で毎朝せっせとジム通いをする愉快なエルヴィスの死は、妙な説得力をもって俺の想像に迫ってくる。警察は身元の特定を急いでいるようだ。俺もまた友エルヴィスの生存確認を急がねばならない。もしジムにいたなら、レッグレイズで追い込んで、本当に春までに蟹の腹に導いてやろう、願うようにそう思った。
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