天秤

 ねえ、何か肌黒くない? 三十だから? また、鼻がプツプツしてきてない? 女が俺の頰を撫で、鼻に溜まった脂をつまみ出そうとした。触んなよ、鬱陶しい。俺は邪険に手をふりはらった。寝不足ではなはだ機嫌が悪い。女は何ごとかを毒づきながらも、鼻歌まじりに化粧を続ける。ふと気になって、テーブルに置かれた丸い鏡を自分の方に向け、顔を映してみる。あ、気になるんでしょ? と女が笑う。指先で鼻を撫でると、たしかに微かなざらつきがある。色も死人のように厭らしくくすんでいる。洗顔液を、性交に使う潤滑油のようなものに変えてから調子が良かったのだが、たぶん、自瀆に耽りすぎたのだ。二日は空けなければ、ホルモンの関係か知らないが脂が表に滲みでてくる。三十になっても、日がな性器は屹立し、ヌルヌルした欲望が頭をもたげてくる。同じ射精でもこれが性交ならば、なぜか肌はなめらかなままなのだが。コソコソした手淫だけが、躰に異常を惹きおこすらしかった。隣りで化粧をする女とは、もう何年も性交していない。容易には憶い出せないくらいだ。最低でも、五、六年は舌を這わせてもいないだろう。

 乾燥してるんじゃない? と着替え終えた女が言った。俺はまだ鏡と睨めっこしていた。化粧水だけじゃ、だめだよ、寒いんだから。俺は鏡に向かって頷いた。じゃ帰りにさ、ニベア買ってきてくれよ、チューブのやつ。女はやたらに太いマフラーをぐるぐるとコートの中まで巻き込んだ。無理、わたし、きょうから三日は帰らないから。もとより、女の家じゃない、俺と親父のアパートだ。帰るも糞もない。ねえ、クリスマス、どっちにするんだっけ? と女が訊く。どっちだっていいよ、変わらないだろ。去年までは、選択肢はなかった。どちらも空けて然るべきという態だった。じゃあ、二十四ね。そう言って女はアパートを出た。行き先は知らない。俺には関係がない。別れて、三年は経ったろうか。奇妙な関係が続いている。いま、部屋に一人だ。何となく、居たたまれない感じだ。天神湯にでもいって熱い湯に浸かろうか、それともさっさと狭い風呂でシャワーを浴びようか。結局、洗面所で顔だけ洗うことにした。いまはとにかく、時間が惜しい。肌には申し訳ないが、俺は雄としての自意識をしばし棄てることにしたのだ。疼いてきたなら、肌が荒れようとも手淫を厭わない。夜勤もジム通いも減らした。いま、書かねばならぬ。何としても、モノにしてみせる。背水の陣で、友人知人たちを主人公に据えた短編群をこしらえている。褒められた人間など一人としていない、俺に負けず劣らずの魅力的なゴキブリどもを、まもなく、この街に解き放つことになるだろう。……


#小説 #文学 #日記 #退廃 #日常

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