染み
店は独特のにおいがする。煮立つ肉のにおい、額に汗して立働く外国人留学生や肉体労働者の客の体臭、便所から漏れてくるアンモニア臭、ドアの隙間から入り込んでくるドブ臭い街のにおい。逃げるようにして、電話ボックスほどの恐ろしく狭い更衣室に飛びこんだ。目と鼻の先に背の高い靴箱がある。どのコックシューズも油に濡れて、ところどころに白黴が生えていてる。動かすと米粒くらいのゴキブリがわらわらと散らばった。靴の裏にこびりついた肉や米の屑を食っているのだ。もはや殺す気にもなれず、マットに上がって黒虫の這う壁に触れぬようレインウェアを脱いでハンガーにかけた。
カウンターでは工員や土方が丼に顔を埋め、忙しなく箸を動かしている。いつ見ても犬みたいだと思う。テーブル席では何か諍いが起こっていた。これも日常茶飯事だった。中国人客の四人組が、幼い娘を連れたヤクザに恫喝されていた。隣りのテーブルに坐る老人は、この騒ぎにも関わらずうつらうつらとやっている、テーブルには日本酒の小瓶が二本置かれ、ベストのポケットにもワンカップが挿さっている。ベトナム人の店員は素知らぬ顔で冷蔵庫に寄りかかり携帯ばかり見ている。俺は客どもの間を抜けてバックドアに入った。また、いつものにおいだ。ゴミ庫から漏れる腐臭といつ掃除したかも分からぬグリストラップの悪臭。米を炊く蒸気がにおいをより濃密なものにしている。厨房にいる奴らに声をかけながら、手洗い場で顔を洗った。汚れた鏡を見ると、きのう剃ったばかりの髭が青白い顔にもう影を生みつつあった。おはよォ、と肉を煮ていた上戸が物憂げに言い、客席の方を顎でしゃくる。何かさっきから騒いでんだけどね、警察呼ぶのも怠いし、参ったよ。バックドアがまた開いて、夜勤の相方が入ってくるなり、どうしたのあれ、と客席を指差して眉を顰めた。中国人のババアが喚きたてる甲高い声が響いている。さあ、チャイチャイだから相手がヤクザだってわからないんじゃない、殺されりゃいいのに。
この異様な空間に来るたび、一刻も早くこの地獄から抜けださなければと切に思う。若い土方が、勘定、とカウンターから叫んだ。こちらでお願いできますかァ、と相方が面倒臭そうに返す。土方は舌打ちして立ち上がり、気怠そうにレジまで来る。お客さん伝票はァ、と相方はわざと嘲るように大袈裟に言う。そんなもんてめえでとってこいよ、と土方は小銭を叩きつけ、乱暴にドアを開け出ていく。おい水お代わり、とタクシーの運転手がコップを掲げる。ベトナム人が中国人とヤクザをなだめていたから、俺が厨房から出て注いでやった。何だ、あのガキ、事故って死ね。相方は顔を赤くしてそう毒づいてから、ベトナム人に向かって叫んだ。おい、そんなの放っておいて、まずゴミ変えろ、頼むから仕事してくれよ仕事を。……
「血が出てるぞォ!」
床に熱湯と洗剤を撒いていると、不意に客席の方から叫び声がした。床が傾いでいるから、食材のカスや固まった油、ひっくり返ったゴキブリの幼虫なんかが返ってきて靴を汚した。
厨房にあるモニターで見ると、酔って居眠りこいていた老人が俯せで倒れているのだった。中国人やヤクザの父娘はいつの間にか帰っていて、髪を明るく染めた高校生たちがテーブル席を陣どっていた。カウンターの工員や運転手は血を流す老人をちらと見たが、箸を動かす手はとめない。それにひっきりなしに客が入ってきては、老人が倒れていようがお構いなしに我先にとベルを鳴らし註文を叫ぶ。相方はテンテコ舞いに走り廻り、長谷川は時間になるとさっさと帰ってしまい、ベトナム人留学生は裏で賄いをかきこんでいる。俺はモニターの中で老人が死んだように横たわるのを見つめつつ、一先ずオーダーを作ってから、バックドアを出て客席に躍りだした。
老人の指先は小刻みに痙攣していた。よく来る常連だった。声をかけると、酔漢独特の胴間声をあげた。手の顫えはアルコール中毒によるものだろう。仰向けに寝かせると、顳顬のあたりがざっくりと切れていてピンク色の粒子のある肉が見えていた。老人は憤ったような声とともに酒臭い息を吹きかけてきた。赤子みたいに首根っこを支えてやると、ヌルヌルとした濃褐色の血が掌を濡らして不快だった。ドロリとした濃い色の血はとめどなく溢れてきた。茶色いシミの斑点の散らばる顔は、血の気が失せたようにも上気したようにも見える疎らな色をしている。この爺、死ぬんじゃないか? そう思った。
「Kちゃん、放っておきなって。そんなの平気だから、額ってのはさ、血が出るもんなんだよ」
相方はさも迷惑そうに言った。いいんだよ、おれも昔よく切ったよ、自転車ごと田んぼに落ちてさ、ガラスが埋まってたんだ、ぱっくりいったよ。血溜まりが拡がっていくのを見ながら、よくこんな中で悠長に飯が食えるものだな、と思った。客どもは、我関せずとばかりに丼に鼻先を埋めている。
店の子機で救急車を呼んだ。老人は壁に寄りかからせておいて、手を濯いで肉体労働者たちの餌を作るために厨房に戻った。やがて救急隊員が入ってきた。老人に大声をかけながら傷口を調べ、慣れた手つきで包帯を巻いていく。遅れて担架が運ばれて来る。老人は何か譫言を喚きながら連れ去られた。のちに警官が二人現れ、淡々と状況を訊いて帰っていった。しぶといジジイだな、と客足が落ち着いてから相方は言った。死ねばいいのにね、こっちは薄汚い常連が一人でも減ってくれれば万々歳なんだからさ。
窓の外を、キャビンアテンダントが颯爽と歩いている。女体への鋭敏な触覚からか、客たちはやはり犬みたいに顔をあげ、角に消えるまで舐めるように視姦する。なんだ、もうジャケット着てやがんのかァ、あのぴちっとした白シャツが堪らんのになあ。オールバックに撫でつけたトラックの運転手が黄色い歯を剥いてそう嘆いた。冬来たる、だなァ、どうだい、俺の髪型はジョン・スノウみたいだろう? 米俵みたいに太った男だった。近くのスナックから流れてきた派手な髪の女と客二人が入ってくる。ビールちょうだいよ、ぶっきらぼうにそう言う女は二十歳そこそこに見えた。追従する冴えない中年の男が、三本ね、あとキムチ、と言って蝿を払うような仕草をする。この男を殺してやりたい、それか早晩、女の働くスナックに行って、この男の眼前で堂々とモノにしてやろうか。そんなことを考えた。Kちゃんは優しいなァ、と相方が俺の思考とは裏腹なことを言った。あんな客にも笑顔だもんな、おれ顔しかめちゃったよ。そうだそうだ、と思った。俺は仮面をつけているのだった、自分でも戸惑うほど効果をあげる自己欺瞞の仮面を。中国人の団体がひっきりなしに入ってくる。気づけば深夜の二時を廻っていた。奴らこそ真の犬ころだった。席にはつかずに他の客の邪魔も考えずフラフラ歩き廻り、まくしたてるような早口でさんざ騒いで、挙げ句の果てには文化か何か知らないが、残飯やゴミで盆や床を散らかして帰っていく。それに奴らは日本語はむろんのこと英語すら喋ろうとせず、母国語が当たり前に通じると勘違いしているようなのだ。獣のように節操なく粗末な性器でやりまくった結果、人口が増えただけの国じゃないか。そういえば駅前にはびこる街娼どもも、同じ人種の恥も外見もない奴らだった。……
ここにいると精神が擦り切れてくるのがわかる。奥底に眠っていた悪意がせりあがってくる感じがする。こういった悪意の群れがこの街に蝟集し、野良犬のように徘徊しているのだろう。この街に二十九年暮らし、この店に勤めて十年が経っていた。溝鼠が下水を好むように、畢竟俺もこの店に何か親近を覚えているのだろうか。翌日の夜、ふたたび店の戸をくぐり、狭苦しい更衣室でレインウェアを脱ぎ、フロアにでたとき、隅のテーブルには包帯の上にキャップを被った老人が坐っていた。テーブルの上には大吟醸と焼き鮭。白い無精髭を生やした老人は赤ら顔でうつらうつらとやっていた。頰に昨晩は気づかなかった裂傷がある。相方が入ってくる。何だよ畜生、また呑んでやがんのか、路地に棄てておきゃよかったんだ、そうすりゃ死んでくれたかもなァ。床には拭いきれていない血の跡がある。ニスの剥げた腐った木目にじっとり染みてもう落ちないかもしれない。中国人の大家族がドヤドヤと喚きながら入ってくる。相方が高らかに舌打ちをする。俺はどうしてか動くことができず、赤黒い褐色の染みの上で立ち尽くしていた。自分がこの店の、この街の、ただちっぽけな染みの一つになってしまったような気がしたのだった。
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