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燈らぬ光

 夜勤から帰ってくると、靴下から順に脱いでいくのだが、どうしてか洗濯カゴが冷蔵庫のまえに置かれていた。体重計も台所に立てかけられている。どうにも奇妙だと思い、洗面所の灯りをつけた。下の扉を開けると、腐りきっていた穴がきれいに塞がれていた。どうやら知らぬ間に業者がきて直していったらしいのだ。うちの大家らしいと思った。業者は、洗濯カゴに男物の下着しかないのにがっかりしたろう。一階ならば、五十をこえた中国女の赫いパンティを拝めただろうに。

 風呂から上がり、化粧水をはたいていたところに、壊れたベルが死にぎわの猫みたいに鳴いた。大家だ。ごめんねえ、お父さんには電話したんだけど、繋がらなくて、しようがないからわたしが立ち会ったの、あ、そうそう、水道屋さんがね、何か電気がつかないっていうのよ。洗面所には二種の電灯があった。天井に埋めこまれてあるものと、鏡の付近にすえつけられているものの二つだ。天井の灯りが、二年ほど前から急につかなくなった。電球をかえても駄目で、むろん大家に相談したのだが、おかしいねえ、と繰り返すばかりで埒があかなかった。それで今回、実は真上にある大家の洗面所からの水漏れが原因だということが判明したらしかった。よくぞ正直に打ち明けたものだな、と関心するほど莫迦じゃない。一切悪びれもしておらず、ただヌケヌケと事実を述べているだけなのだから。大家は手にビニール袋をぶら下げていた。詫びの品だろうか? それでね、と俺に袋を渡しながら大家は切り出した。これ、新しい電球なんだけど、もう水も乾いて大丈夫だろうから、悪いけど変えといてくださる? たぶん、それで点くと思うのよね。袋には大きさの異なる二種の白熱電球が入っていた。はあ、と俺は白痴の子のように呆気にとられて頷いた。ドアが閉められ、ご丁寧にマスターキーで施錠までしてくれた。さて、電球を変えようにも、天井が無駄に高いからテーブルを持ってこなければならない。夜勤の疲れで躰が怠く、眠気の波も最高潮だったから、一旦寝て起き抜けにやることにした。

 夕方、小便で起きて、そのまま顔を洗った。馴れてしまったのか、つい台所の水を浴びてしまい、苦笑した。袖で顔を拭い、洗面所の天井を見上げた。ぽっかり空いた電球の跡は錆や埃で黒々として光を放ちそうにない。テーブルをひきずってくるのがどうにも面倒で、乱暴だが洗面台に上ってつけてしまうことにした。だがやはり、灯りは点かない。砂状の錆がぱらぱらと顔に落ちかかった。もう一つに関しては電球が嵌りすらしなかった。錆で汚れた顔をバスタオルで拭い、大家を訪ねるためにサンダルをつっかけ三階に赴いた。大家は不在だった。仕方がないから、電球を入れたビニール袋にメモを同封し、ノブにかけておいた。夜勤まで、もう一眠りすることにした。

 奇妙な夢を見ていた。中世時代の西洋の、都会でなく山奥の集落で、青灰色の景色を歩いていた。葉のない白樺、腐ったようなドロリとした川、石灰色の土、俺は村の住民たちと川沿いを下っていた。住民たちは一様に陰鬱だが、沸々としたヒステリーを内に秘めているように見える。彫りが深く、鼻が鋭く尖り、ドイツ人によく似た顔立ちだ。先頭の男が、突然何かを叫んだ。日本語ではなかった。どうやら先頭集団が何者かに襲われているらしく、血飛沫が仄かに見えた。俺の眼はカメラアイのようにその”何者”かに迫ってゆく。老婆だった。手の先が鍵状の鎌のように変形していて、それで逃げ惑う住民の喉笛を掻っ切っていた。俺は慌てて川を渡ろうとした。が、川だと思っていたそれは溶解した死体の流れで、ドロドロとした肉片に足がはまって踏んばりがきかない。青白い真顔で住民を惨殺しながら、老婆が近づいてくる。俺は周りの西洋風の男たちに助けを求めるが、いかんせん言葉が通じない。俺は何事かを烈しく叫んだ、そしてそれは現実世界でも喉をふるわせていたようだ。薄い硝子が割れるような音がした。地震でも起きたのかと思い俺はソファから跳ね起きた。耳と神経を澄ませると、ドアの向こうから低い声が聞こえてくる。眼鏡をかけ、そろりと開けてみると、大家が床に屈みこんでいるのだった。ああ、ビックリした、あんまり愕いて、落としちゃった、どうしたの、厭な夢でも見たんじゃないの? 割れた電球の破片を握る大家、まるで夢の続きを見ている気分だ。ほら、まだまだあるのよ。そう言って老婆はぎっしりと電球の入ったビニール袋を見せてきた。もはや新品か使用済みかも判然としない、魚の卵のような電球の詰め合わせだ。どれか一つくらい、点く気がしないかしら? 恐らく、配線がショートしているのであって、電球の問題ではないのだろうが、老いたる大家にそれを言っても聞く耳を持たない気がした。大家は俺に袋を預けてくる。無数の紳士たちがシャンパングラスを重ねあう音が響く。脚立、持ってきたの、終わったら、ドアの横にかけておいてくれればいいからね。大家はそそくさと玄関から去り、やはり外から鍵を閉めてくれた。俺は大量の白熱電球が犇めく袋を下げながら、うす暗い洗面所に立ち尽くした。欲しかったコートは、この冬は諦めようと思った。少しずつでも、金を貯めよう。来年は、きっと近隣にあるような小綺麗で、キャビンアテンダントなんかが一人で棲まうような、何も問題のないマンションに移ろう、そう心に決めた誕生日の朝だ。……


#小説 #文学 #日記 #退廃 #日常

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