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【卒論全文】女性が主人公のロードムービーにみる女性の表象 ー映画『テルマ&ルイーズ』と『フォーエバー・ロード』を比較してー

こんにちは、野風です。

突然なのですが、学部生の頃に書いた卒業論文を全文公開しようと思います。せっかく1年以上取り組んだ論文なので、どうせなら色んな人に見てもらいたいというのと、ジェンダーや映画にまつわる卒論を書いている人に、少しでも参考になれば良いなと思ったのが主な理由です。あとジェンダーやフェミニズム、映画は私の永遠のテーマなので、自分の基本的なスタンスも表明できるかなと思い。

改めて読んで多少書き換えている箇所もあるので、個人的な論文と考えていただければと...!

私が書いた卒論の基本的なテーマは「フェミニズムと映画分析」になります。1991年に公開されたリドリー・スコット監督の『テルマ&ルイーズ(Thelma and Louise)』とその後釜とも言われる、エドワード・ズウィック監督の『フォーエバーロード(原題:Leaving normal)』を比較しています。

左:テルマ&ルイーズ 右:フォーエバー・ロード

かなり稚拙なところもあるとは思うのですが、何かの参考になれば良いかなと思っております。ではでは。

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1.はじめに  

 映画は20世紀を代表する芸術の一つであり、社会を映す鏡であると言われている。ハリウッドに代表される主流な物語映画が、現実を歪曲するだけでなくステレオタイプを強化し、家父長制に基づいたジェンダー体制を保持するメッセージを伝えるとする捉え方は、いまだに女性学では根強い(斎藤 2010:251)。主人公の性別や役割が固定化されている映画ジャンルの例は、今でも多く存在する。その中でも男性が中心になることが多いジャンルの一つに、ロードムービーがある。60年代のカウンターカルチャーを象徴する69年公開の大ヒット作『イージー・ライダー』をはじめとして、その多くが男性が主人公の作品だ。しかし、数は少ないが、中には女性が主人公のロードムービーも存在する。本論文では、本来「男性的」なものであるとされているロードムービーにおける、女性主人公たちの表象について、映画『テルマ&ルイーズ』についての議論を追い、『テルマ&ルイーズ』に続いたロードムービー『フォーエバー・ロード』がその批判点を克服している映画であったのか否か、また映画の中にどんな問題点があるのかを考察していく。  

2.先行研究

2-1. ハリウッド映画と女性

2-1-1. ハリウッド映画に登場する女性たちの特徴

 映画の歴史は1894年に始まり、1907年ごろからハリウッドで映画が撮られるようになった。現在はロサンゼルス郊外、ハリウッドにアメリカの大手映画会社が集まっており、ハリウッドは世界最大の映画生産地として知られている。一般的に「ハリウッド映画」とはハリウッドの場所でつくられた映画の総称である。1910年代から1960年代までの古典的ハリウッド映画には、汚れを知らぬ処女や無力で「嘆き悲しむ乙女」、また魔性の女など典型的な女性のキャラクターが多く登場していたが、1960年代以降のフェミニズム批評により、女性の描かれ方は多く変わった(Goksik, Monahan, &Barsam 2018=2019)。  
 塚本(2003:103-4)によると、1980年代以降のハリウッド映画には、武器や車を駆使し、アクションの主体として能動的に行動する新しいタイプのアクション・ヒロインが誕生した。そして、そのきっかけになったのはリドリー・スコット監督の1979年公開の作品「エイリアン」であると述べる。『エイリアン』は、宇宙船で乗組員がエイリアンに襲われる恐怖を描いたSFホラー映画の古典的作品である。『エイリアン』の4シリーズは全編、同じ女性キャラクターが主役だ。彼女は強い自信と責任感、倫理意識に支えられて職務に励んでおり、非常事態においても冷静さを忘れず、適切な判断を下せる人物として描かれている(塚本 2003:104)。しかし、1980年代後半になると、強い女性は肯定的に描かれておらず、それは80年代後半に顕著になるフェミニズムに対するバックラッシュの現れと見なされる(永瀬 2016:10)。永瀬によると、90年代のハリウッド映画には核家族の崩壊の一因が自立する女性にあるという描かれ方が多くされたが、2000年代になると強い女性が受容されたとみなすことができる作品がある(永瀬 2016:17-18)。小林(2011)は、過去にアカデミー作品賞を受賞した計83作品を分析し、自立しており、かつ正しい選択をした女性キャラクターは結果的に不幸になるという展開の映画が多いことを指摘し、「男を選ばない女、男を不幸にする女は幸福になってはならない」というハリウッド映画のメッセージが伝わってくる、と結論づけた。内田(2003)は、ハリウッド映画にはアメリカン・ミソジニーが色濃く現れており、そこには女性嫌悪の説話元型が執拗に、強迫的に反復され続けてきたと言う。  
 

2-1-2. ハリウッド映画の中の「見られる」女性

 フェミニズム映画批評家は、男性の欲望の受動的な対象として描かれる女性の表象に、特に注意を払ってきた。女性キャラクターは、そのアイデンティティがひとえに男性によって定義されると言う状況にまで追いやられる(Goksik, Monahan, &Barsam 2018=2019:63)と言う。精神分析モデルを中心にして映画を読み解いたローラ・マルヴィによると、映画の中で伝統的に顕示的な役割を持つ女性は見られると同時に呈示されてきたため、視覚的で性愛的な強度の衝撃をもつような形に規則化されてきたという(Mulvey 1975=1998:131)。性的対象として呈示された女性は性愛的見世物のライトモチーフ的存在で、女性は(観客の)視線を捕え、男性の欲望を意味し、それに向けて演じるという。また、映画監督バッド・ベティカーは「重要なのは、ヒロインが何を引き起こし、あるいはむしろ、何を表すかだ。彼女が、というよりは彼女がヒーローにいだかせる愛と恐れが、そうでなければ彼女に寄せる彼の関心が、ヒーローの行動を決定するのだ。それ以外には女性は何ら重要性をもたない」と指摘した(Mulvey 1975=1998:132)。

2-2. ロードムービーというジャンル

2-2-1. ロードムービーとは

 遠山(2000:4)によると「ロード・ムーヴィー」という言葉が使われ出したのは1976年にドイツで設立された映画制作会社「ロード・ムーヴィーズ・プロダクツィオーン」が始まったという。また、「ロード・ムーヴィー」という語そのものは、事後的に旅(放浪)の映画全般を指し示す言葉として半ば体系化されたことに触れ、例外はあるものの「ロード・ムーヴィー」が旅や放浪を含めた移動を扱った、主に車やバイクで疾走する映画をすべて「ロード・ムーヴィー」として包括すると規定した(遠山 2000:5-9)。  
 ロード・ムービーは1960年代から1970年代にかけて多く作られた。1969年公開のアメリカ映画『イージー・ライダー』や『幸福の黄色いハンカチ(1977)』が代表作としてあげられる(矢野 2012:6)。映画『イージー・ライダー』は、コカインの密輸で大金を得た若者二人組がロサンゼルスからニューオーリンズを目指してバイクで旅をする様子を描いた、アメリカン・ニューシネマの代表作だ。既存の体制への隷属に反抗し、自由を求める60年代の時代のカウンターカルチャーのムードを反映した”時代が生んだ映画”として、世界中で興行的に大成功を収めた(谷川 2000:30)。  
 塚本(2010)によると、シネマとロードがアメリカのナショナル・アイデンティティを作り上げていると同時に、ロード表象にはアメリカの矛盾するノワールのナイトメア的なセルフイメージが投影されているという。そして興味深いことに、アメリカ映画が描く「ロード」は死の匂いに満ちており、ロードが導くのは死/ナイトメアである(塚本 2010:180-1)。轟(2000)は、ロード・ムービーは本質的に、”反=ホームドラマ”という方向性を内包しており、映画の中の”旅(逃走)する二人”にとって、「家」に辿り着くことはその”ゴール”を意味していないと述べる。そして、どちらかの”死”や両方の”死”という悲劇的な結末を迎え、反=ホームドラマであることを”旅立つ二人”が全うすることも少なくない(轟,2000:50-3)。  

2-2-2. ロードムービーと男性性  

 『イージー・ライダー』を例とするロードムービーでは、ファム・ファタールに人生を狂わされた男たちや、戦争のトラウマに苛まれる男たちが、強き男性イメージを取り戻そうとし、ロードを彷徨い、あるいはマシンと同一化する。よってロード・ムーヴィーには「性」の問題が前景化する(塚本 2010:186)。Corriganの定義によると、①家族崩壊に呼応するように、男性主体やマスキュリニティに亀裂が生じる、②様々な出来事が主人公に降りかかる、③主人公とマシンの一体化、④女性が不在の男の物語、そして男性の逃避願望を煽る、という(Corrigan 1991:143-6=2010:186)。  

2-3. 映画「テルマ&ルイーズ」

2-3-1. 映画の概要

  『テルマ&ルイーズ(Thelma and Louise)』は、1991年に公開されたアメリカ映画である。監督は『エイリアン』や『ブレードランナー』シリーズで知られるリドリー・スコットで、脚本家はカーリー・クーリという女性である。この映画はカーリー・クーリのデビュー作でもあった。1992年に行われた第64回アカデミー賞においては6部門にノミネートされ、脚本賞を受賞した。『テルマ&ルイーズ』は、女性同士の親友、テルマとルイーズの犯罪と逃避行を描いたロードムービーで、現代でも評価の高い作品である。映画においても現実世界でも、伝統的には男性が演じてきた役割を、この作品では女性二人が演じている(Ryan &Lenos 2012=2014:215)。また、Alexandra Heller-Nicholaは、この映画を人気が高く商業的にも成功した大ヒットフェミニズム映画の一つと称え、男性達への復讐と同程度に女性達の友情や愛・結束を強調した作品であると述べた(2012)。  
 映画のあらすじは、平凡で弱気な専業主婦テルマと、ウェイトレスとして働く自立心の強いルイーズが一日旅行に出かけた道中、テルマがある男にレイプされかけてルイーズがその男に発砲し殺したことから、2人が犯罪を重ねながら車で逃避行をするというもの。詳しいあらすじは、3の研究内容の中で言及する。  
 

2-3-2. 作品に対する反応

 滝本(1991)は「女性が生きている場所は、男性にとって荒野である」というアーシュラ・K・ル=グウィンのエッセイに触れ、この作品はまさに女性をその故郷たる荒野に返すことで逆に男に反撃する、画期的なロードムービーだとした。テルマとルイーズは道中で、男に騙され有り金全てを取られたりしながらも、その男に教わったやり方でドラッグ・ストアで強盗をしたり、警察官を車に閉じ込めたり、トラックを爆破させたりまでに「強く」なっていく様子が描かれている。特にもともと弱気だったテルマの変身ぶりは凄まじい。しかし、永瀬(2016)はこの映画は、男性中心の社会で女性が「強く」なろうとすると、社会の枠組みからはみ出すことによってしかそれは実現しないことを示しているとし、「旅先でテルマが変わるきっかけを男性がもたらしていることに注目すれば、家庭でも社会においても男性の圧倒的な影響力を見せつけていると言える。(永瀬 2016:11)」と述べた。ルイーズが最初に男を殺した時やその後の逃亡においても、「二人が束縛から完全に解き放たれたのは、男性社会のシンボルともいうべき銃による暴力という手段に訴えることによってであった」と言う(塚本,2003:108)。  
 
2-3-3. 二人の死という結末  
 ラストシーンでテルマとルイーズは、荒野で警察に囲まれ行き場がなくなってしまう。しかしテルマはルイーズに”Let’s keep going”と言い、2人はキスを交わし固く手を取り合って、車ごと崖から落ちる。崖に向かって車が勢いよく走り出した瞬間、旅の最初に撮った2人の笑顔のポロライド写真が後方に飛んでいく。そして崖から落ちていくはずの車のショットは、車の先方が上を向いた状態で、まさに空に飛んでいくような状態で停止し、この映画は終わる。  

(図1. テルマ&ルイーズのラストシーン)  

 Alexandra(2012)は、この映画のラストはハリウッド映画の歴史の中でも最も有名なエンディングの一つと賞賛した。また、テルマとルイーズの強い友情と、虐げられていた元の生活には戻らないという決断が象徴的なポラロイド写真のカットで表されているとし、「この映画のメッセージは本当の女性の解放とは、女性達が自分の生をコントロールすることにあると示しているようにみえ、それ故に主人公の二人は死さえも自分たちでコントロールしなければいけなかった。」と述べる(Alexandra 2012)。しかし、塚本は一見したところ主体的に選択したように見える、テルマとルイーズの運命は、男性によって追いつめられることによってもたらされたものであり、彼女たちの選択の結果とは言いがたい、と指摘する(塚本 2016:108)。彼女達は、最終的にアメリカ社会におけるジェンダーステレオタイプを「違法に」乗り越えた存在として「処刑」されてしまう(新藤 2011:255)。

2-4. 『テルマ&ルイーズ』に続いた女性のロード・ムービー

 『テルマ&ルイーズ』の成功にあやかって製作されたと言われる映画に、92年4月公開の『フォーエバーロード(原題:Leaving normal)』(エドワード・ズウィック監督)や、95年公開の『ボーイズ・オン・ザ・サイド』(ハーバート・ロス監督)が挙げられる。『テルマ&ルイーズ』に関する研究は多く見られるのだが、『フォーエバーロード』や『ボーイズ・オン・ザ・サイド』に関して言及された研究は少ない。  

3.研究内容

3-1. 研究内容の概要

 1992年4月29日に公開された『フォーエバー・ロード』は、『テルマ&ルイーズ』と同じく、女性二人が主人公のロードムービーだ。『フォーエバー・ロード』の監督はエドワード・ズウィックで脚本はエド・ソロモンである。ドワード・ズウィック監督は2003年公開の『ラスト・サムライ』や2010年公開の『ラブ&ドラッグ(原題:Love and Other Drugs)』が代表作として知られている。脚本家のエド・ソロモンは男性で、1997年公開の『メン・イン・ブラック(Men in Black)』が代表的だ。  
 『フォーエバー・ロード』は日本では劇場公開されず、VHSが発売されただけであった。VHSのパッケージには「『テルマ&ルイーズ』に続く女性ロード・ムービーの傑作!」と描かれている。また、作中には明らかに『テルマ&ルイーズ』をモチーフにしたと思われるシーンや構図が多く存在する。映画評論家のロジャー・エバートは、映画『フォーエバー・ロード』を観ている時『テルマ&ルイーズ』のことを考えずにはいられなかったと語る(Ebert 1992)。主人公の設定も類似点が多くある。  

(図2.3. 似ている構図 左:『テルマ&ルイーズ』 右:『フォーエバー・ロード』)  


 しかし、『フォーエバー・ロード』の結末は所謂ハッピーエンドで、内容にもかなりの違いがある。今回は同時期にアメリカで公開された、女性が主人公のロードムービー『テルマ&ルイーズ』と『フォーエバー・ロード』を比べ類似点、または相違点を分析していく。

3-2. 『テルマ&ルイーズ』と『フォーエバー・ロード』のストーリー

3-2-1. 『テルマ&ルイーズ』  

 最初の舞台となるのは、アメリカ合衆国南部のアーカンソー州だ。主人公は18歳で結婚した世間知らずのテルマと、ウェイトレスとして働く自立的な親友ルイーズで、テルマは夫に嘘をつき、はじめてルイーズと友人の山荘に旅行に出かけることにする。その道中で立ち寄った酒場で、テルマはお酒に酔っ払い、ハーランという男性と仲良くなる。しかし酔っ払って気分が悪くなったテルマを、ハーランは駐車場でレイプしようとする。心配して外に出てきたルイーズがそれを目撃し、ハーランに対し拳銃を突きつける。2人は逃げようとするが、ハーランが2人に対し暴言を吐いたため、憤慨したルイーズはハーランを射殺する。2人は動揺し今後について相談する。ルイーズは警察に本当のことを話しても信じてもらえないと主張し、メキシコに逃げることを決意する。テルマもそれに賛同し2人はテキサス州を避けてメキシコへ向かう。ルイーズは恋人を頼りに貯金を取り寄せるが、道中出会ったJ.Dという若者に全額盗まれてしまう。テルマはスーパーを強盗しお金を作るが、警察とFBIは2人にどんどん迫ってくる。とうとう2人は警察とFBIによって、グランドキャニオンに追い詰められ、目の前が崖になったところで車を止める。警察官ハルは2人の見方だがテルマは、ルイーズに「Just keep going」と言い、2人は手を堅く結びキスをして車ごと崖に落ちていく。  
 

3-2-2. 『フォーエバー・ロード』

 夫の暴力にショックを受けた専業主婦マリアンと、酒場でウェイトレスとして働いていたダーリーが、田舎町ノーマルで出会うところから物語が始まる。ダーリーは仕事を辞めて、元夫が建てた家にいくためアラスカに向かうところだったが、泣いていたマリアンを車に乗せてマリアンの姉夫婦の家へ送り届ける。しかしマリアンは姉の家にさほど馴染めず、2人は共にアラスカを目指して旅に出ることにする。道中立ち寄ったレストランでウェイトレスをしていた66と言う女性と知り合うと、彼女も旅に参加することになる。3人が公園に出かけると、近くにいた男性が66をダンスに誘い、66は彼と結婚することになった。夜、唐突にダーリーが18年前に、障害を持っていた生後間もない子どもを捨てたとマリアンに告白する。翌日元夫との家があるはずの場所に到着すると、家は建設途中のままボロボロの柱だけが取り残されていた。2人はその後アラスカを出るお金を貯めるため、地元で働きながら暮らす。その合間にマリアンはダーリーを驚かせるため、近くのボロ家に住んでいたエスキモーの少年2人に手伝ってもらい家の骨組みを建て変え家具を揃えるが、貯金を使ったことに憤慨しダーリーは出て行ってしまう。ちょうど入れ替わりで、道中で会った詩人の男性ハリーがマリアンに会いに来て、男性はマリアンを旅に誘うがマリアンは断る。ダーリーはお金を稼ぐため体を売ろうとするが元夫が再婚していることを聞き絶望し、マリアンの元へ戻る。ダーリーとマリアンは地元の少年2人と一緒に、新しく建てた家で暮らすことにする。  

3-3. 主人公の描かれ方

3-3-1. 「泣く」という行為

 まず注目したいのは「泣く」という行為の描かれ方の違いだ。『テルマ&ルイーズ』では、物語前半、テルマがレイプされかけるシーンとその後避難したモーテルで泣いている。しかしそこには男性の慰めはない。むしろ物語後半で彼女達は、スピード違反で2人に話を聞こうとした男性警察官に対し銃を突きつけて脅しトランクに閉じ込めて、彼を泣かせている。ラストシーンで、2人が走り続ける(=自殺する)と決めた時に2人は感極まって笑いながら涙を流す。そこで2人は互いの手をギュッと握りキスを交わす。しかし、そこには男性の姿は不在である。  
 対して『フォーエバー・ロード』では、アラスカに到着した以降の物語後半に、主人公の2人とも、泣いて男性に慰められるという場面がある。マリアンはダーリーと喧嘩し彼女がいなくなった後、詩人の男性ハリーが訪ねてきて顔を見た瞬間に、床にへたり込んで何も言わず号泣した。突然のことに男性は戸惑い彼女に大丈夫か尋ねるが、マリアンはさらに子どものように泣きじゃくる。 ロージーは物語冒頭で男性をかついで車に送っているように、強く自立した女性として描かれている。最初同僚の夫と浮気をして同僚に謝っているシーンや、過去の恋愛についてあけすけと話すように、彼女は性的にも主体的な女性である。そのようにダーリーは基本的に自立していて強いキャラクターであるにも関わらず、物語終盤で号泣し床にしゃがみ込み、自分をお金で抱こうとしていた男性に慰めてもらい肩に服をかけてもらうという描写がある。「こういう荒っぽいのが好きなんだろ」と無理やり自分を抱こうとしていた男性に慰められるという構図だ。
 このように『フォーエバー・ロード』には「女性=泣くもの、弱いもの、男性が守るべきもの」という古典的な女性像が伺える。旅をしていく中で女性主人公が男性に頼らず強くなっていく過程を描いた『テルマ&ルイーズ』に対し、『フォーエバー・ロード』では物語終盤でも、男性の慰めありきで生きる女性が描かれている。  

3-3-2. 2人の関係性

 いわゆる相棒映画では、ヒーローの同性愛的性愛刺激が中心となって物語が進行すると言われている(Mulvey 1975=1998:132)。映画『テルマ&ルイーズ』においては、ラストシーンで崖に車を走らせる直前、2人がキスをすることもあり、そのように同性愛的解釈の余地がある。  
 対して、『フォーエバー・ロード』の場合は、主人公二人が作中で同性愛を否定しながら物語が進んでいく。マリアンの姉夫婦の家で、ダーリーがピエロのコンドームの話をしてふたりで笑うシーンがある。ここからは2人の間で、あくまで性行為の際にコンドームを使用する異性愛が当然のものとして受け取られていることがわかる。また、2人が夫婦の息子の部屋の宇宙の壁を見て、ダーリーが「神様、息子をホモにしないで」と笑いながら言う。マリアンは上半身裸のレスラーの写真がプリントされた布団を広げ「レスラーの布団で寝るとホモにならないと思っているのかしら」とからかう。2人の主人公の中には同性愛嫌悪的な感情があり、映画自体でも主人公2人の関係性が同性愛的なものであるという解釈を否定していることがわかる。また物語後半で、一度出て行ってしまったダーリーが戻ってきて、マリアンとハグをするシーンがある。それを見つめるエスキモーの少年2人にダーリーは「そんなに見ているとキスするわよ。」と言う。片方の少年が、英語がわからない少年にそれを翻訳すると、彼は嫌そうにしかめ顔をして、他の3人で笑う。このシーンからも、あくまで同性愛はからかいの対象であり、主人公2人の同性愛的な解釈の余地はないことが伺える。

3-4. 登場人物たちとの関係

 次に、『テルマ&ルイーズ』と『フォーエバー・ロード』に登場する人物達に注目したい。どちらの映画も、後半に従って男性キャラクターの比率が高くなっているが『テルマ&ルイーズ』の中では、台詞のある女性の登場人物は、冒頭のルイーズが働くレストランの客と酒場の女性店員を除き、テルマとルイーズのみに限られている。特に、ルイーズがハーランを銃殺してから、2人の”警察から逃げる旅”が始まってからは一度も新しく登場することはない。対して『フォーエバー・ロード』では、旅の道中も台詞のある女性キャラクターも登場する。また、『テルマ&ルイーズ』では物語後半に登場する男性キャラクターはテルマとルイーズにとって敵として見なされている。2人に対して、好奇の目や性的な眼差しを投げかけるだけで台詞のないキャラクターも多いが、『フォーエバー・ロード』では、物語の最後に向かいマリアンがアラスカの街の男性たちに、優しく「受け入れられていく」様子が多く描かれている。

3-5. 結婚に対する価値観

3-5-1. 『フォーエバー・ロード』の結婚観  

 『フォーエバー・ロード』でマリアンは、両親が幼い頃喧嘩別れをして傷ついた経験があるが、いわゆる”一般的な幸せな家族像”を夢見る女の子として描かれている。夫は彼女に対し威圧的な態度を取り、暴力をふるい失望した彼女は思い立って家を走り去るが、幸せな結婚に対する夢は捨てていない。その思いは、作中に何度も現れる。  
 また、映画『フォーエバー・ロード』の最初のシーンは両親が喧嘩しているのを背景に、彼女がきらきら星を歌いながら「父・母・息子・娘」の棒人間を黒板に書いている場面で始まる。そして、それを仮にもかなえた形でこの物語は終わる。アラスカの新天地で、マリアンとロージーとエスキモーの少年2人と暮らす事になり、リビングで食事をする4人の姿を俯瞰して映画は終わる。この映画の結婚に対する価値観は、主人公2人の次に出番の多い、もう一人の女性キャラクターに顕著に現れていると言えるだろう。

3-5-2. 『フォーエバー・ロード』に登場するもう1人の女性キャラクター

 マリアンとダーリーに続いて、出番の多い女性の登場人物は、途中2人のロードトリップに合流する「66」だ。彼女は66と言うあだ名の、ぽっちゃり体型の赤毛の女性だ。彼女は2人が立ち寄ったレストランで働いていたウェイトレスで、トラック運転手と詩人から逃げた2人が偶然隠れていた車の持ち主でもあった。その後、主人公2人と約丸1日を一緒に過ごすこととなった。66は彼女はレストランでウェイトレスとして働いていた時、店長に「早くしろよ」と常に怒鳴られていたように、少し鈍臭いキャラクターだ。しかし「真実の愛」を見つけるために奮闘する、前向きな女性として描かれている。例えば、3人が立ち寄ったナイトクラブで、彼女が4人の男性を踊りに誘っても容姿のために、皆から断られていたが66は「どこかに私を待っている人がいる」「信じているの」と言い、前向きだった。 翌日の昼、3人が出かけた公園で、66は偶然隣に座っていた痩せた男に酒をもらい、彼に「君はとても美しい」「僕と踊ってください」と言われる。そして2人は踊りに行き、カメラは踊っている2人を上空から映し、ロマンチックな音楽が流れる。場面が変わって夜になると、マリアンとダーリーが彼女の行方を心配していると、66は白い立派なリムジン車に乗って痩せた男と現れる。そして66は彼を「私のフィアンセよ」と2人に紹介する。彼は、大きなスパイス会社を経営しているお金持ちだったのだ。そして、66は観客にとって唐突に登場した彼と結婚をしたことで、この映画から消えてしまった。結婚がキャラクターとしての、彼女のゴールなのだ。彼女は偶然そこに居合わせたお金持ちの男性に見出され、理想的な結婚をした。いわば受身で勝ち取った結婚である。
 66は2人と別れた時、マリアンとダーリーに車とキャンピングカーを譲ったが、それは彼女がそれまで生きてきた場所であり、彼女は今までの生活基盤を全て捨て、結婚というものに自分の将来を賭けていることが伺える。彼女が所有していた車はテルマ&ルイーズを彷彿とさせるようなスカイブルー色の車だったのだが、最終的に真っ白なリムジンに乗り換えたことは興味深い。  

3-6. 登場人物と「信じる」ということ

3-6-1. 神を信じる物語『フォーエバー・ロード』

 『フォーエバー・ロード』で66は幸せなキャラクターとして描かれている。66がフィアンセとなった男性と幸せそうに腕を組み車で去って行った後、主人公2人は唖然とし、マリアンが「私たちは何をやってきたのかしら。彼女の結婚の手伝い?」と、ダーリーは「結局私たちは取り残されたわけね」と言う。彼女の出現と消失によって、主人公のマリアンとダーリーは「幸せな結婚」にさらに夢を抱くことになった。このキャラクターが象徴するものはなんだろうか。そして主人公2人になくて、66にあったものは何だろうか。
 その一つに彼女は「信じる」人間であったということがあると考えられる。彼女は神に祈り、運命を信じて、前向きな気持ちで待ち続けている人であった。66というニックネームが洗礼名セシリアからきていることからも分かるように、彼女はキリスト教信者だ。聖書、ローマの信徒への手紙22~25節の中に「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。」とあるように、彼女は常に神を信じていたことから、キリスト教的な「信じる者は救われる」という信条があることが伺える。また66は、夜寝る前に歌を歌っていた。ダーリーとマリアンがいることを一切気にしない様子で目を閉じて歌っている様子から、毎日の日課として歌っていたことが伺える。歌詞は以下の通りだ。  

” Bed is too small for my tiredness  
Bring me a hilltop with trees  
Tuck a cloud up under my chin  
Lord, blow the moon out, please”  

 これは1981年の”Girl Guides of Canada”という歌集に入っている「Bed is Too Small」という曲だ。歌詞の最後に出てくる"Lord"は「主」の意味である。  
 また、マリアンと結ばれると示唆されている詩人の男性ハリーも神に祈りを捧げる人であった。トラック運転手と4人でレストランで食事をした際、食事の前にみんなで手をとって「神様・・・とりあえずこう呼びます、もし本当にいるならこの食事と2人のことを感謝します。彼女たちが無事に旅を追えられるよう行く手をどうかお守りください、お願いします、アーメン」このお祈りの間、彼は横にいたマリアンと約9秒間に渡って見つめ合う。これは2人の恋心が明らかになる重要なシーンである。
 また、マリアンとダーリー、エスキモーの少年2人が手を取り合って食卓を囲むシーンでこの映画は終わる。ご飯を食べる前に、マリアンをこの地に導いてきた存在であるダーリーがまるで家主のように祈りを捧げる。ダリアンは目を閉じ「天の誰かさんへ この家と家族...じゃない。とにかくお守りください。心から感謝します。」と言う。  

(図4.5. 『フォーエバー・ロード』のラストシーン)  

 物語中盤、レストランで詩人の男性が食事の時に天に祈りを捧げようとしていた時に「もしかしてお祈り?」と冷やかしていたダーリーが、物語の最後で神に祈りを捧げる人物に変化した。このシーンでは誰も笑う人はおらず、皆真剣で満ち足りた表情をしている。  
 映画『フォーエバー・ロード』の登場人物の中で一番先に幸せを掴んだ人は、常日頃から神に祈りを捧げていた66であった。また食事の際にお祈りをしていたハリーも、物語終盤でマリアンとのキスシーンがあり、彼女と将来何らかの形で結ばれることが示唆されている。そしてこの皆で祈りを捧げるラストシーンからも「天を信じて、祈りを捧げる人が幸せになれる」という映画のメッセージが伺える。  
 

3-6-2. 神を信じない物語『テルマ&ルイーズ』

 一方『テルマ&ルイーズ』は、主人公の2人は何も信じなかったと言える。テルマとルイーズは、J.Dにお金を取られた失敗以降より、周りの人間に対してより警戒心を抱くようになる。物語の中盤から、彼女達の事件を担当する刑事ハルという物語の主要人物が登場する。彼は電話で何度も2人を救おうとするが、2人は何をされるか分からないと頑なにその救いを断る。ハルは「君らを助けたい」「事故だと信じるとも、俺はそう主張したいんだよ」と親身になっているが2人はその救いを断る。また、ルイーズはテキサス州でレイプされた過去があると示唆されているが、ハルはそれも調べた上で「力になるよ、俺はテキサスで君に何があったかも知っている」とルイーズに自首するよう説得する。それを聞いたルイーズは顔を固まらせて電話を切った。彼女達は、警察とFBIという巨大な権力が持つ情報網によって監視されていることに権力的な脅威を感じていた。テルマとルイーズにとっては、ハルも自分たちのことを常に監視している存在でしかなく、それは途中テルマが強盗を働いた監視カメラを刑事ハルと他警察官達が見ているシーンでも明らかである。天井に設置された監視カメラから彼女を眺める視線は、上からで一方的である。この時テルマは、警察官の男性らと観客どちらもから見つめられることとなる。  

(図6. テルマの強盗シーンの監視カメラ)

 ハルからの救いの提案は、窮地に追い込まれた2人にとって一見神の救いのようなものであったが、あくまでそれは刑事という、上の立場からの救いであって、テルマとルイーズはその提案を頑なに拒否した。彼女達は自分たちでコントロール出来るもの以外、信じようとはしなかった。だからこそ死という結末を選び取ったのだ。  

3-7. 映画の中の「性愛的」存在

3-7-1. 映画の中の「性愛的」存在の定義  

 次に2つの映画に登場する「性愛的」存在に注目したい。2-1-2にあるように、 Laura Mulvey によって「映画の中で女性は性愛的見世物のライトモチーフ的存在である」と指摘されていた。さらに、従来の約束事では、呈示された女性は二つのレベルで機能してきたという。第一は物語の登場人物の性愛的な対象としてであり、もう一つは、劇場の中の観客にとっての性愛的対象である。例えば、ショーガールというアイデアを使った場合には、物語世界を明らかに中断せずに、登場人物と観客の視線が実際的に一本化するのが可能になる(Mulvey 1975=1998:132)のだと言う。  
 

3-7-2. 『テルマ&ルイーズ』の性愛的キャラクター

 『テルマ&ルイーズ』のなかで、女性主人公が男性を「見る」側となる、性愛的なライトモチーフが存在する。そのモチーフとなるのは、テルマが一晩を共にするブラッド・ピット演じるJ.Dだ。道中で、テルマとルイーズはヒッチハイクをしているという南部なまりのある自称学生の若者、J.Dを車に乗せる。オクラハマのモーテルに到着すると、彼を下ろしたのだが、テルマは彼に対し少し未練があったため、雨が降っていて行き場のないJ.Dに再会すると彼をモーテルの部屋にあげる。 J.Dは最初、自分のことを学生と言っていたが、実はスーパーなどの強盗をして生計を立てていた。テルマにそれを告白した話の流れで、彼は強盗する時の順序を実際に説明する。J.Dは上半身裸で、まるでショーガールのようにパフォーマンスを繰り広げる。  

(図7.  J.Dのパフォーマンスシーン)

このシーンでは、まさにショーガールに対する視線のように、J.Dに対するテルマと観客の視線が一本化する。テルマの部屋のシーンの中では、J.Dがベッドの上で飛び跳ねるシーン(約1秒間)とパンショットを覗き、基本的にルイーズとJ.Dがどちらも画面の中に映り込んでいる。しかし、このJ.Dのパフォーマンスのシーンでは、計27秒間に渡って2人の姿が同時に映されていない。

(図8.9. 左:J.Dのパフォーマンスの直前のシーン。右:パフォーマンスの直後のシーン。どちらも肩越しのショットが使用されている。)  

 J.Dの強盗パフォーマンスのシーンだけ、意図的にテルマ越しのJ.Dを映すのではなく観客とテルマの視線が一本化するように撮影されていることが分かる。國友によると、J.Dを演じたブラッド・ピッドが主演の『ジョー・ブラックによろしく(1998)』などは、まさしく女性の好みに合わせた男性表象に焦点をおいていると言う(2011)。この映画でも、ブラッド・ピッドが女性主人公と観客に性的に提示されていると言える。映画の世界でそれまで「見られる存在」であった女性ではなく、男性がここで性愛的モチーフとして登場したことは興味深い。  
 

3-7-3. 『フォーエバー・ロード』の性愛的キャラクター

 『フォーエバー・ロード』でも、登場人物が性的なパフォーマンスを繰り広げるシーンが一箇所存在する。そのパフォーマンスをするのは、主人公ダーリーだ。物語終盤、ダーリーは貯金を勝手に使ったマリアンに腹を立て家を出るがお金がなく、働いていた地元の酒場で誘ってきた男性のメモを頼りに会うことにする。その男性は彼女が若い頃、”ピロー・トーク”という名前でストリッパーをしていた時のお客で、彼女に再会すると、自分と寝ることを持ちかけていたのだった。500ドルの約束でダーリーが家に行くと、彼は「昔みたいに踊ってくれよ」とダーリーに言う。そこで、ダーリーは彼に向けて腰をくねらせ服を脱ぐパフォーマンスをする。このパフォーマンスシーンでは、ダーリーを買った男性の後ろ姿は出てこなく、観客も彼女の身体に視線を向けることになる。主人公である彼女自身が性愛的モチーフとして、男性と観客に提示されているのだ。

(図10.  ストリップダンスを踊るダーリー)  

3-8. 主人公と「選択する」ということ

3-8-1. 選択する物語『テルマ&ルイーズ』

 『テルマ&ルイーズ』は主人公2人が、男性からの逃避という道を選んできた結果としての、死という結末であった。特にテルマの変化ぶりは凄まじい。彼女は、物語の中で夫から逃れて旅行することを選択し、酒場で楽しむことを選択し、魅力的な若者J.Dと寝ることを選択し、強盗をすることを選択し、警察を脅すことを選択し、最後にはそのままロードを走り続けて死ぬことを選択した。最初は夫に従順で内気だった彼女が旅の過程で変化し、最後には先陣を切って2人で死ぬことを選択したのだ。テルマが自分でスーパーに強盗に入ることを選択し自分1人で堂々と強盗をやり切るシーンは、その強くなった変化を象徴している。テルマの堂々っぷりは、夫が防犯カメラの映像を見て” Jesus(驚いたな) ”と言うほどだった。ルイーズも警察から逃げることを選択し、昔の恋人のプロポーズを断ることを選択し、いくら良心的な言葉をかけられても決して警察には捕まらないことを選択し、ひたすら逃げ続けた。主人公2人の「男性から逃げ続ける」という選択の連続で、この映画は進んでいたと言える。

3-8-2. 選択しない物語『フォーエバー・ロード』

 『フォーエバー・ロード』の主人公2人(特にマリアン)に共通する価値観として「自分で選ばない」というものがある。2人の旅の道中は選ばないことの連続であった。アラスカに向かう途中、自分で選ばなければ悩まないと言い、ダーリーがマリアンに誓いを立たせる。マリアンはロージーに続き「私マリアンは、今までの自分の選択が全て失敗だったと認めます。よってこれからは、選択の一切を放棄します」と誓いを立て、地図の上にタバコが倒れた道を選んで進んだ。2人がそのように選択しないと決めた後の空のシーンには大きな虹がかかっていたことにも、その「選択しない」という選択が正しいものであったとされていることが伺える。特に、マリアンの選択しないという価値観は、映画の後半で2人が喧嘩するシーンにも色濃く表れる。  

マリアン「今までとは違う気がするの。なんというか私はなにも選択していない。街が私を選んだの。」  
ダーリー「運命?タバコのときみたいに?言っとくけどね、あれはお遊び行き当たりばったりよ。運命とは無縁なの」  
マリアン「なぜそう投げやりなの?」  
ダーリー「そうかしら」  
マリアン「いつもよ!」  

 ここで、ダーリーはあくまでタバコの件はおふざけだったと言っているが、マリアンは運命を信じていることが分かる。

3-8-3. 「選択」の比較

 『テルマ&ルイーズ』で主人公2人の死は、一見彼女達の主体的な選択に見えるが、男性によってもたらされた結末という点で彼女たちの選択の結果とは言いがたいと批判されていた。一方『フォーエバー・ロード』ではどうだろうか。
 『フォーエバー・ロード』で、マリアンはそれまで働いたことがなく仕事に就くのに苦労するかと思われたが、情熱を評価されて町の工具店で働かせてもらうことになった。そして、詩人の男性ハリーに一緒にトラックで旅をしようと言われた時、その誘いを「今はそれはできない」と言って断り、当分の間アラスカで生活していくことを選択する。彼女は物語初めは内気で、自分では何も選択できない様子であったが最後では自分が生きていく場所を決断し成長したという描写である。マリアンは道中では進んで何かを選択した訳ではないが、物語の結末においては自分で自分の生き方を選んだと言える。
 しかしダーリーの場合は、映画の結末は彼女が進んで選んだものであるとは言い難い。そもそも2人がアラスカに留まったのはアラスカを出るお金がなく、無料で住める、ダーリーが所有する土地と、66にもらったキャンピングカーがあったからでそれ以外に積極的な理由はなかった。さらに、アラスカの田舎の地には女性が働いていける場所は明らかに少ない。彼女らがアラスカについた直後、ダーリーはウェイトレス以外の仕事をしたいと言っていたが結局それ以外出来る仕事はないと嘆いていた。面接を通った町の酒場でウェイトレスとして働いていても、セクハラに遭いそれに抵抗したことで、彼女は仕事をクビになってしまった。物語終盤でダーリーはマリアンと喧嘩し、アラスカの地を出て行ったが、体を売ることでしかお金を稼ぐ方法がなく、軽蔑していた昔馴染みの男性に体を売るほどだった。行くあてがなく、結局彼女はマリアンのところに帰ってきたのだが、彼女が今後アラスカで一体どんな仕事について稼いでいくのかは描かれていない。結局ダーリーの仕事は旅に出る前と変わらず、むしろ物語が進むことで、過去にストリッパーとして働いていた頃の体を資本として稼ぐ彼女に近くなってしまったとも言える。彼女はアラスカに戻ることで選択肢が狭まってしまったとも言える。彼女がアラスカの田舎の地で、そのまま暮らしていくと決めたことは消極的な選択であることは否めない。
 『テルマ&ルイーズ』では、主人公2人が男性からの逃避という選択を進んで何度も重ねた結果の、2人の死という結末であった。対して『フォーエバー・ロード』では主人公2人が選択を避けてきた。そして最後にやっとマリアンがした選択したのみであると言える。

3-9.  結末の比較

3-9-1. 主人公の行き着く先

 『テルマ&ルイーズ』の主人公の2人は、家や過去を捨てロードで死ぬことを選んだのに対し、『フォーエバー・ロード』の結末は、マリアンとダーリーが新天地アラスカに家を建て、地元の少年二人と幸せに過ごしていくことを決めるハッピーエンドだ。ジャンルとしては、主人公二人が車で旅をするというロードムービーのジャンルに相当する作品ではあり「女性ロード・ムービーの傑作」とも宣伝されているが、その結末は「死」で終わらず「家」という旅の終着点に到着している。この映画は、その結末を見る限り、女性主人公を荒野から家に返した物語であると言える。マリアンとダーリーは、現地の少年たち2人と過ごすことにするが、その一家の性別の構成としては、マリアンが最初に描いていた理想像(男2人・女2人)と重なる。その構成の男女比は彼女が理想としていた「父・母・息子・娘」の男性2人・女性2人だ。出会ったエスキモーが少女ではなく少年だったことにも意味があるだろう。最終的な家族構成が、彼女の描く幸せな家族の理想像に近づいたことは間違いない。
 

3-9-2. エンドロールの違い

 エンドロールからも、両者の違いがはっきりと見える。『テルマ&ルイーズ』では、崖に飛び出した車をスローモーションで映して画面が白くなりこの映画は終わる。そしてエンドロールでは彼女達の旅の過程が回想シーンのように約30秒間映される。どのシーンにもテルマとルイーズ2人の姿が映っており、彼女達はどのシーンでも笑顔だ。ホワイトアウトとこの笑顔の回想シーンがあることで、観客はこの選択が彼女達にとってバッドエンドであるという感想は抱きづらい。カメラの位置は常に彼女達の目線と同じか、それより極端に高くなることはない。バックグラウンドでゴスペルのような壮大な音楽が流れていることもあり、この物語はハッピーエンドであると感じさせられるようになっていると言える。  
 

(図11. 『テルマ&ルイーズ』のエンドロール、最後の回想シーン)  

  対して『フォーエバー・ロード』では、食事の前に祈りを捧げた4人が窓越しに映され、その後カメラが引いていって彼女達の家を俯瞰する様子でエンドロールが流れ、エンドロールの終わりとともに暗転する。音楽は2つとも明るいメロディーの音楽とバイオリンの音が主役のカントリー調のアップテンポな音楽だ。4分20秒間、観客は彼女達の家を俯瞰して見つめることになる。この長い固定アングルのエンドロールからは、いかにこの物語の中で「家」というものが重要視されているのかが伺える。  

(図13. 『フォーエバー・ロード』のエンドロール)

3-10. 2つの映画と「ロードームービーである」ということ

 ロードムービー作品の代表作の一つである『イージー・ライダー』(1969年公開)は、既存の体制への隷属に反抗し、自由を求める60年代の時代のカウンターカルチャーのムードを反映した”時代が生んだ映画”として、世界中で興行的に大成功を収めた(谷川 2000:30)という。『イージー・ライダー」のヒット後も多くのロードムービーが制作され公開された。そして91年に公開された、映画『テルマ&ルイーズ』は、人気が高く商業的にも成功した大ヒットフェミニズム映画の一つであると称えられていた(Alexandra 2012)。この映画では全体を通し、主人公のテルマとルイーズが男性の支配から逃れ、自由を求める過程が描かれている。『テルマ&ルイーズ』はそれまで男性中心のものであったロードムービーの主人公が女性になることで、女性の生きづらさを描き、最後のロードムービーお決まりの「死」という結末も、女性が男性に追い詰められるという構図で、現実の社会を風刺するようなものであったと言える。
 対して『フォーエバー・ロード』はロードムービーというよりはホームドラマに近い。主人公の「選択しない」という価値観にも現れているように、それまでの環境を捨て、ロードーむーびーならではの、主人公がロードを疾走し自由を求める様子は描かれていない。主人公2人は何の制約もない身であるにも関わらず、自由を行使しようとしなかった。そして彼らは、ロードムービーにお決まりである結末の「死」に向かうわけでもなく「家」に落ち着いた。カウンターカルチャーが生んだロードムービーは、キリスト教的な保守主義に対抗していた一面もあると言われているが、『フォーエバー・ロード』で主人公2人は神を信じ祈りを捧げるようになった。
 ロードムービーである『フォーエバー・ロード』を考える上で、物語終盤で詩人の男性ハリーがマリアンに再会し、問いかけるシーンが印象的だ。ハリーは一緒に旅をしていたトラック運転手が病気になってしまい、彼が代わりに仕事を引き継いでトラック運転手になったと伝える。彼は4人で乗っていたトラックの中でも性的な冗談に対し戸惑い、ダーリーとトラック運転手にからかわれていたようにいわゆる”男らしい”キャラクターではない。そんな彼が、ロードを疾走するトラック運転手になり本人もマリアンに「僕がトラック野郎になるとはね。」と苦笑して言った。彼はマリアンに「もしここを出てもいいなら一緒にこないか」とマリアンを自分との旅に誘うのだが、マリアンは「素敵だと思うが、しばらくはここにいたいという。」と今は行かないことを選択する。ここでの選択肢は「ロード」もしくは「家」の2種類のみである。彼はまた数ヶ月後に戻ってくると伝え、彼らはロマンチックなお別れのキスをして別れた。この結末は「男性=ロード」と「女性=家」の構図をより強固にしていると言える。男性はロードへ、女性は家へ、そしてそれ以外の選択肢はない。これは固定的なジェンダー規範をならうもので、物語としての新しさは見受けられない。
 ロードムービーの醍醐味である自由が十分に行使されていないことや、ロードムービーのジャンルの基礎に従っていないこと、ただ従っていないだけでなく旅をした結果女性主人公が「家」にたどり着くというありきたりな結末になることから、映画『フォーエバー・ロード』はロードムービーであり、かつ女性が主人公の映画であるという設定の面白さを生かせてはいないと言える。
 

4. 結論

 映画『テルマ&ルイーズ』とそれに続いた『フォーエバー・ロード』はどちらも女性が主人公のロードムービーであり、『フォーエバー・ロード』は構図や人物像など『テルマ&ルイーズ』を意識して作られた点が多くあるものの、2つの映画には多くの相違点があった。ストーリーは勿論、主人公の描かれ方や周りの人物との関係、画面の構図などからでもそれが明らかである。  
 『テルマ&ルイーズ』は神を信じない物語である。救世主に見えた、親身な刑事ハルのことも信用せず、この先良い未来は無いと悟った2人は最後に死ぬことを選択する。対して『フォーエバー・ロード』に登場する66という女性キャラクターは神を信じて待ち続けていたからこそ、物語の中で幸せをいち早く掴むこととなった。主人公マリアン主人公2人も物語の最後には祈るようになり、映画全体で「信じれば救われる」というメッセージが伺える。
 ロードムービーは本質的に、”反=ホームドラマ”という方向性を内包しており、主人公にとって家に辿り着くことはそのゴールを意味していないと言われていたが、『テルマ&ルイーズ』はまさにその法則にならい、社会での女性の生きづらさを風刺した映画であると言える。反対に『フォーエバー・ロード』のストーリーは、ロードムービーというよりはホームドラマのようだ。主人公達のゴール地点は「死」ではなく「家」であった。いかに物語の中で「家」が大事にされているかは、長回しのエンドロールからも伺える。 そして『テルマ&ルイーズ』で主人公2人の死は、一見彼女達の主体的な選択に見えるが、男性によってもたらされた結末という点で彼女たちの選択の結果とは言いがたいと、批判されていたが、『フォーエバー・ロード』でもダーリーの仕事のことなどを考えると、結末は彼女達の積極的な選択とは言い難い。映画『テルマ&ルイーズ』で言われていた「主体的に見える結末は、女性主人公の主体的な選択ではなかった」という批判点は、『フォーエバー・ロード』でも乗り越えられることができなかったと言える。  
 また、『テルマ&ルイーズ』は主人公2人が、男性からの逃避という道を選んできた、数々の選択の結果としての、死という結末であったが、『フォーエバー・ロード』では主人公達が選択を避けて物語が進み、最後にマリアンが微かな選択をしたのみであった。 そして『フォーエバー・ロード』の映画の中の要素を一つずつ見ていくと、女性が男性に慰められる描写が多いこと、「結婚=幸せ」の価値観があること、女性主人公のダーリー自身が性愛的モチーフとして提示されていることや、などから、古典的なジェンダー規範や価値観を再び強固にするような装置が多く見受けられる。さらにホモフォビア的な感覚も伺える。
『テルマ&ルイーズ』はそれまでのロードムービーが男性中心社会で、女性達が自らの生き方をコントロールしようとする物語で、女性主人公をロードと荒野に解き放つものであったのに対し、『フォーエバー・ロード』は女性達をロードではなく、再び家に押し戻した物語であると言える。ロードムービーの醍醐味である自由の公使が、物語中で主人公達によってされておらず、主人公マリアンの最終的な選択も「ロードか家か」の2つの選択肢から選ぶもので、結果的に「男性=ロード」と「女性=家」の構図をより強固にするものであった。そして、ロードムービーのジャンルの基礎にも従ってもいない。このような点から、映画『フォーエバー・ロード』は何重もの意味で『テルマ&ルイーズ』より劣っていると言わざるを得ない。

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(最終閲覧:2020年12月5日)https://www.rogerebert.com/reviews/leaving-normal-1992  


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