私は歯車の一部。
でも、歯車を回す軸でもある。
それはマクロかミクロか、視点の違い。
大学卒業後、社会の歯車を感じるようになった。
そして、その回り続ける歯車の一部分として走り続ける感覚。スピードに合わせられず止まってしまえば、振り落とされる。そこから外れればどうなってしまうか分からない。だから、立ち止まることはできない。
恐怖に似た感覚で、走り続けることを自分に課していた。
休むこと、つまり休職。
それは社会の歯車から外れることだと思っていた。
今も社会の歯車を感じる。
たしかに大きな歯車が、どこを軸にしているのか分からないけど回っている。そして、私はその一部になっている(というか、いる)と思っている。
でも、
大きな歯車は、小さな歯車の集合体であるとも確信した。だから、私の意思とは別に回る歯車があれば、自分で回せる歯車もある。
例えば、家族。
私は今、子供として、私の家族という歯車の一部になっている。もし、これから私がパートナーを持ち、親になれば、私は歯車の軸として動くだろう。
この私自身だって、歯車そのものだ。
私の意思は私の軸となり、私自身を回している。
世界は歯車の集合体。
広く見れば、巨大な歯車が回ってる。
その主軸がどこにあるかなんて、個人の理解が及ぶものでない。
でも近づいてみると、小さな歯車たちがくるくる回っていることに気付く。目の回りそうなものも、ゆったりしたものも、なんでもある。
それぞれのペースやカラーがある。
そうやって社会が形成されて、これからも作られていく。
ただそれだけのこと。