鎌倉文士の嚆矢、実朝のこと
実朝のことを考え続けている。
先年、恩師中西進先生を鎌倉市市制八十周年記念行事の特別講師として招聘した折のひと言がほどけてくれないことが大きい。本題前に先生は、鎌倉に来たからには右大臣源実朝に触れないわけにはいかない、と後鳥羽院への献呈歌として知られる「山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも」を引かれ、実朝は『旧約聖書』を読んでいたかも知れないと言及された。『創世記』「出エジプト記」のモーセの「海割れ」のくだりとの親近性にかかる教示であった。
聴衆を驚嘆させる刺激的な発言ではあったが、中西学を学ぶ者は、初学時「カルデアの知識」(『万葉集の比較文学的研究』)を通して、奈良期にあっての「創世記」由来の「7」を基準とする発想の様相を基本知識とするゆえ、その言葉に違和感を抱くことはない。来鎌直前に上梓された『万葉集の詩性』(角川新書)所収の「三つの詩性」にも、『万葉集』にあってのキリスト教の影響について分かりやすく書かれた一節がある。別に調べても中国へのキリスト教の伝来は、唐代太宗の時代の635年(貞観9年)、ネストリウス派が「景教」の名で、ペルシア人司祭「阿羅本」代表の宣教師団によって伝えられた(岩村『世界の歴史5 西域とイスラム』(中公文庫)とのことであるし、「大秦景教流行中国碑]がその歴史を刻んでいる証として存在する(同書)。ことほどさように大陸にあってキリスト教の伝来が一般常識として明らかならば、当時盛んに隋や唐との交渉、渡航を重ねていた日本への知識の浸透は、たとえ僅かばりであったとしても確実だろう。だとすれば、そうしたキリスト教(景教)の息遣いを深いところで吸い込んだと推察される『万葉集』を、定家から献上され耽読し、見事自家薬籠中のものとしえた実朝が『旧約聖書』を読んでいたかも知れない、との先生の一言は、中西学徒でなくとも説得力十分なはずである。講演で先生は、当時来日していた宣教師から実朝が『聖書』の内容を教えられていた可能性にも触れられていた。宋への渡航を夢見て、造船にまで突き進んだ実朝であったことを重ねれば、「山はさけ海はあせなむ」の字句の下地として「出エジプト記」があったとしてもなんの不思議もない。かかる次第で講演では先生らしい導入だなと思い聞いたひと言についてその後しばらくしてある方から、その典拠を問われた。慌てて調べてみたものの、文学研究の畑から余りに縁遠くなってしまっている自分には、先生の言葉を明瞭に担保する文献にまで行き着くことができなかった。そしていつしか星霜を重ねてしまっている。
ところで、実朝が愛した『万葉集』の訓読について鎌倉時代に画期を成した妙本寺ゆかりの学僧仙覚律師が、自らの研究の道を歩み始める第一歩は、実朝が非業の死を迎えた後に四代鎌倉将軍となった藤原頼経の命であったことは多くがよく知るところであろう。また、その校合により完成した所謂「治定本」ののち整えられた「仙覚文永三年本」は六代将軍となる宗尊親王に献上されている(小川靖彦『万葉集と日本人』角川選書)。この研究、継承が何故実現したのかについて思いを巡らすと、やはり実朝の存在を重ねないではいられない。
そもそも仙覚が初めて校訂にとりかかった際、参照した六本のうちの一本は「鎌倉右大臣家本」であった。実朝を思うことなく校合が進められたとは思われない。加えて、仙覚の研究の真の立役者は金沢文庫を創始した北条実時であるだろうと個人的には考えているのだが、だとすれば、実朝ゆかりの名を有する実時も実朝の教養を慕っていたに違いなく、鎌倉期の『万葉集』研究そのものが、実朝追善供養であったと思われるのである。実朝の存在は益々もって重くなる。
今もって色褪せることなき鎌倉文士の嚆矢、実朝。それをひたすら考え続けているのである。