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画壇事情、興味津々。誘拐事件が端緒となる「愛」の物語、塩田武士『存在のすべてを』レビュー

 ある作家を集中的に読み進めている最中で中断したくなかったが、立ち寄った書店の平積みの新刊本の帯に久米宏の名前があって、気になり購入。久米さん、元気かな。ラジオはもとよりweb配信もなくなり、ずっと気になっている。そんなことがキッカケで読み始めたのは、かつて久米宏が激賞していた『罪の声』の塩田武士新刊『存在のすべてを』。
 「このミス」で話題になるような分野の作品に飛びつくような読書を重ねてはいないが、『罪の声』を久米宏の放送を契機に興味深く読んだこともあり、このたびも腰巻のひと言に背中を押されての寄り道読書だったが、最終盤で温かく泣かされ、思わぬ嬉しい時間となった。
 ただ、ミステリーとしては、どうなんだろう。事件そのものはキレイに片付かない。事件が起因となり生じた数奇な偶然そのものが物語の基軸である。定年間近の新聞記者が、懇意になった警察官の遺志を受け継ぎ周辺事情を粘り強く追跡して、涙に決着する物語にたどり着く。同時進行ではかなく美しい純愛が絡まされ、両者が奇しくも同着する展開は、いささかあざとさを感じさせないでもない。それでも誘拐事件そのものの展開や、詳細に語られる画壇事情、ならびに現代美術にあっての「写実画」の評価・位置にかかる言及いずれも面白く、風景描写も上質で、文体そのものに安定感があって、快適に頁が進んであっという間に読了できる。
 作者塩田武士は、まだ若い作家ながら、次々並ぶ映画や楽曲等の小道具に同世代感があった。これは語りの中心となる定年退職を迎えようとしている新聞記者の経歴に寄せて創作上整えた感覚なのか、そもそめ作者自身の個性なのか。『罪の声』でも似たような印象に満ちていたことを考え合わせると後者なのかも知れない。このあたりは、この分野の優れた読み手諸氏の評価に委せたい。
 秋の夜長に最適な一書。ミステリーを敬遠する読書愛好者にお薦めしたい。

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